多摩線の分岐駅として、1974年に開業した小田急の新百合ヶ丘駅。
開業当初は周辺が山林ばかりでしたが、発展が続いた結果、現在は落ち着きがありながらも多くの利用者で賑わう駅となっています。

今回は、新百合ヶ丘が本格的に発展を始める前から、徐々に変化が始まった頃の思い出を振り返ってみたいと思います。

周辺に何もない時期が続いた新百合ヶ丘駅

新百合ヶ丘は、丘陵地帯の中に誕生し、開業当初の周辺はほとんどが山林でした。
1974年に開業をした後もしばらくはそのような状態で、現在のようにペデストリアンデッキはなく、何もない場所にある大きな駅となっていました。

1977年から土地区画整理事業が始まり、徐々に周辺で造成工事が行われるようになり、1982年に川崎市の多摩区から分区して麻生区が誕生すると、新百合ヶ丘は川崎市の北部副都心と位置付けられました。
駅の北口側には麻生区役所が建設され、少しずつ周辺が発展するようになります。

私の記憶はこの頃から断片的に残っており、新百合ヶ丘といえば何もない駅でした。
急行が停車する立派な駅ながら、降りる理由はそこまでない駅だったのです。

何もなかった頃の思い出とその後の発展

新百合ヶ丘という駅は、目的地ではなく各停と急行を乗り換える駅というのが昔のイメージです。
そうなってしまうのは当然のことで、駅の周辺には商業施設がなかったため、降りる理由がありませんでした。

乗り換え客は当時からそれなりにはいましたが、駅周辺に何もないせいか静かで、各停と急行の乗客が入れ替わるタイミング以外は、人があまりいなかった印象です。
多摩線のホームには短い2400形が停車しており、数少ない乗客を多摩線に運んでいきました。

そんな何もない新百合ヶ丘に1988年にオープンしたのが、現在は麻生小学校がある場所にあった巨大迷路の「あ?めいず」です。
この頃の新百合ヶ丘といえば迷路、そうイメージされる方も多いのではないでしょうか。
私も遊んだ記憶があり、今もあれば運動不足の解消に意外と良いのではないかと思ってしまいます。

昭和の終わり頃から平成の初めにかけては、まだ駅の周辺に何もないイメージでしたが、新百合ヶ丘にも転機が訪れます。
1990年に小田急のアコルデ、1992年にはエルミロードやマプレが相次いでオープンし、一気に商業施設が増加していきました。
この頃から乗り降りをする人は一気に増加し、徐々に駅周辺が賑わうようになり、道路の渋滞が慢性化するようになります。
多摩線の車両は、大型車の4両、6両と段階的に変更され、ホームに停車する車両のイメージも変化していきます。

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何もない駅というイメージは徐々になくなり、1997年にはビブレ(現在のイオンスタイル)がオープンし、昔の面影はなくなっていきました。
駅とその周辺が発展することは、楽しみが増えた反面、昔の光景を知る者としては少し寂しくも感じます。

駅自体も2回の大規模な改良工事が行われ、昔の面影はほとんどなくなってしまいました。
今のように広くなかった駅舎は静かな空間で、今とは全く異なる雰囲気だったのをよく覚えています。

おわりに

ある程度開発が終わった新百合ヶ丘ですが、今後横浜市営地下鉄の延伸が予定されています。
その際には駅も含めて大きな変化があると予想され、さらに新百合ヶ丘のイメージは変わるのかもしれませんね。