晩年は一部の編成が8両固定編成に組み替えられ、2004年に引退した小田急2600形。
最後まで残った2670Fが旧塗装化されたことで有名ですが、中途半端に終わった車体修理や8両への組み替えで、晩年は振り回され続けた車両でした。

2600形には車体修理が行われずに廃車となった編成がありましたが、なぜ2編成だけが残されてしまったのか、その理由を考えてみたいと思います。

2編成を残して中止された2600形の車体修理

2600形の車体修理は、1985年度から開始されました。
施工時の仕様差はそこまで多くありませんでしたが、1987年度に施工された編成からは、妻窓が固定の1枚窓に変更されています。

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毎年度4編成ずつに施工され、1989年度まで車体修理は続けられますが、20編成が終わったところで途切れてしまいました。
1989年度が終わった段階で、2652Fと2654Fが未施工のまま残っていましたが、1990年度に車体修理は行われなかったのです。

そんな中、1991年に2600形にとって最初の波乱となる、脱線事故による廃車が発生しました。
この事故で2671Fは小田原方の2両を失いますが、未更新の2654Fと組み合わせることで復帰を果たすのです。



編成内に車体修理が済んだ車両と、そうではない車両が混在する編成が誕生したことになりますが、これはあくまでも一時的な措置でした。

車体修理はなぜ2編成にだけ行われなかったのか

2652Fと2654Fにだけ行われなかった車体修理ですが、現在1000形が廃車になっていることとは事情が異なり、たった2編成だけが残されたのです。
さらに不思議なことは、脱線事故の関係で2654Fは組み替えられてしまいましたが、2652Fは最後まで未更新のまま、結果的に他の6両と同じ時期まで走り続けています。

2600形の後には、5000形や9000形の車体修理が始まっていますが、2編成だけを残してでもすぐに始めなければいけなかった理由もなさそうです。
なぜ2編成だけが残されたのでしょうか。

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その背景にあると思われるのが、2600形の8両固定編成への組み替えです。
組み替えは1992年度から始まっており、最終的に6編成が8両となりました。

ここで時系列を整理してみましょう。
1988年のダイヤ改正で各停の8両運転が開始され、1989年度に2600形の車体修理は中止されました。
1991年の脱線事故を挟んで、1992年度からは8両固定編成への組み替えが開始され、8両に組み替えられた2654Fの3両だけが、このタイミングで車体修理を施工されています。

つまり、車体修理が中止された段階で、将来的に2600形を組み替える計画が既にあり、その際に余剰となる車両に車体修理をする必要はないと、判断されたのではないでしょうか。
2654Fの3両にだけ、組み替え時に車体修理が行われたのがそれを暗に示しています。



一方で、2654Fのサハ2754が廃車となり、2652Fのサハ2752が廃車となっていません。
余剰となる付随車が4両なのに対して、車体修理が済んでいる付随車が3両廃車となっていますが、これは2671Fの脱線事故で計画が狂ったのかもしれません。

組み替えを行う際に、2652Fの一部の車両は車体修理を行う予定だったのだと思われますが、8両化が中止となったことで、未更新のまま最後まで走り続けることになってしまったのだと考えられます。
車体修理が済んだ車両が廃車となり、未更新の編成がそのまま残るという状況は明らかにおかしく、何らかの計画変更によって生じてしまったのでしょうね。

おわりに

未更新の編成が残ってしまった背景には、様々な計画変更に巻き込まれた2600形の不運があったのかもしれません。
今回の内容は全て私の推測ですが、こういった背景がなければ、2編成だけが未更新で残るということはなかったのではないでしょうか。