小田急で最多の勢力を誇り、合計で346両が在籍している3000形。
従来の車両とはあまりにも異なるその姿に、登場直後は衝撃を受けたことを覚えています。

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現在は見かけないことのほうが難しい3000形ですが、当然登場直後はなかなか見ることができない車両でした。
今回の記事では、3000形が登場して間もない頃の思い出を振り返ってみようと思います。

小田急の車両に変革をもたらした3000形

2001年の夏、日本車輌製造の豊川製作所を小田急の新型車両が出場しました。
まだインターネットは限られた人だけが使っている時代でしたが、速報が一部のWEBサイトで掲載され、衝撃的な姿が公になりました。

小田急に到着した後は、早速鉄道ファンによる分析が始まり、ブレーキ読み替え装置が搭載されていることや、外見上の特徴についての議論が交わされることとなります。
それまでとは異なる外見は賛否両論ではあったものの、登場当時は前面が太帯でそれまでの車両のイメージを引き継いでいたことや、側扉を1.6mの幅にするといった独自性もあったことから、そこまで批判的な意見は多くなかったように記憶しています。

試運転が開始されると、多くの方がその姿を撮影するようになり、併結試運転等もあって話題は豊富でした。
4000形も含めた全ての4両編成と併結が可能となっていることに、とんでもない車両がデビューするんだと感じたものです。

3000形が営業運転を開始したのは2002年2月10日のことで、江ノ島線や多摩線を走行する姿が見られました。
2600形の置き換え用として登場したため、新型車両としては珍しく、最初から支線での活躍が目立ったのも印象的でした。
1次車としては4編成が増備され、徐々に運用を開始していくこととなります。

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4編成が出揃った後は一旦増備が止まり、なかなか巡り合わない車両という位置付けだったと思います。
その後、嫌というほど見る車両になりますが、当時は想像もしていませんでした。

標準車両化が進められた2次車の登場

3000形が希少な時期は長く続かず、2003年1月に小田急ファンはさらに衝撃を受けることとなります。
東急車輛製造を出場した2次車の3255Fは、1次車とは全く異なる側面だったからです。

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JR東日本の車両に近い側面となったことで、209系に似ているといった声が強くなり、戸袋窓の廃止は小田急ファンにとって少々寂しいものでした。
このタイミングではまだ前面の帯が太く、部分的に小田急らしさを残している状態だったとはいえそうです。

2次車は増備のペースが上がり、3262Fまでの8編成が続々登場することとなります。
3259F以降は川崎重工業での製造となりましたが、側面の表示サイズが大きくなる仕様変更が行われたことが目立ちました。

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3258Fまでとの違いから、3259F以降は3次車だと当初思われましたが、実際には2次車の後期型といった位置付けで、8編成のグループを構成することとなります。
2次車の登場で2600形は2670F以外の編成が廃車となり、世代交代が一気に進められました。
そして、12編成が出揃った3000形は見かける機会が一気に増加し、その後の大量増備へと移行していくのです。

おわりに

どの鉄道車両にも、必ず新型車両だった時代があります。
それ自体はあまりにも当たり前のことですが、3000形を見かける機会が少なかった時代があったことは、今の状況からは想像もできないですね。