元々は4両で登場し、後に6両が大量に製造された小田急5000形。
6両は最終的に20編成も製造され、4両の15編成よりも多くなりました。
この5000形の6両ですが、あることを推進していくために登場したのです。
それは急行の大型10両化で、小田原方に繋がる役割を担っていました。
当時の大型車を整理すると、各停用で6両の2600形、吊り掛け駆動で3両と5両の4000形、4両の5000形、地下鉄直通用で4両と6両の9000形が在籍していました。
2600形は単独使用で、4000形は他形式との併結をしないため、実質的に大型10両を組めるのは5000形と9000形しかいませんでした。
しかし、9000形は地下鉄直通に使用することから、小田急線内で使用できる6両が圧倒的に足りませんでした。
その足りない6両を増やすため、5000形の6両を製造することになりました。
大型10両化の推進、これこそが5000形が造られた背景なのです。
5000形は大型車6両の主力として増備が続けられますが、小田急は一つの問題を抱えていました。
それは、箱根登山線に大型車が直通できないことで、急行箱根湯本行きには2400形が充てられており、大型10両化の妨げとなっていたのです。
この問題は、5000形の増備が終了する1982年に解消し、5000形が箱根湯本まで走行する姿が見られるようになりました。
その後は大型10両が当たり前の時代に突入し、現在の小田急が確立されていきました。
前の6両というスタイルを定着させた車両こそ、5000形の6両でした。
その後の8000形、1000形へと繋がる流れを作った役割は、地味ながら大きなものであったと思います。
最晩年まで急行という最前線で活躍し、登場から廃車まで使われ方はほとんど変化しませんでした。
それだけ大切な役割を担うため、この車両は生まれてきたということなのでしょう。
6両は最終的に20編成も製造され、4両の15編成よりも多くなりました。
この5000形の6両ですが、あることを推進していくために登場したのです。
それは急行の大型10両化で、小田原方に繋がる役割を担っていました。
当時の大型車を整理すると、各停用で6両の2600形、吊り掛け駆動で3両と5両の4000形、4両の5000形、地下鉄直通用で4両と6両の9000形が在籍していました。
2600形は単独使用で、4000形は他形式との併結をしないため、実質的に大型10両を組めるのは5000形と9000形しかいませんでした。
しかし、9000形は地下鉄直通に使用することから、小田急線内で使用できる6両が圧倒的に足りませんでした。
その足りない6両を増やすため、5000形の6両を製造することになりました。
大型10両化の推進、これこそが5000形が造られた背景なのです。
5000形は大型車6両の主力として増備が続けられますが、小田急は一つの問題を抱えていました。
それは、箱根登山線に大型車が直通できないことで、急行箱根湯本行きには2400形が充てられており、大型10両化の妨げとなっていたのです。
この問題は、5000形の増備が終了する1982年に解消し、5000形が箱根湯本まで走行する姿が見られるようになりました。
その後は大型10両が当たり前の時代に突入し、現在の小田急が確立されていきました。
前の6両というスタイルを定着させた車両こそ、5000形の6両でした。
その後の8000形、1000形へと繋がる流れを作った役割は、地味ながら大きなものであったと思います。
最晩年まで急行という最前線で活躍し、登場から廃車まで使われ方はほとんど変化しませんでした。
それだけ大切な役割を担うため、この車両は生まれてきたということなのでしょう。
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