4両と6両が9本ずつ、合計90両が在籍した小田急9000形。
東京メトロの千代田線に直通する車両として登場しましたが、1000形にその役目を譲った後は地上専用車として活躍していました。
地上専用車になった後の9000形ですが、10両を組んで地下鉄に直通していた時とは違い、4両と6両で違った使われ方をするようになりました。
6両は5000形に似た使い方をされるようになり、優等列車を中心として活躍するようになります。
反面、4両は2本を繋いだ8両で各停を中心として使われ、かなり用途が分かれていたのです。
9000形で8両を組むと、オールMの編成となってしまうのですが、これが高い高加減速を生み出せることから、各停用として重宝されたのです。
また、別の理由もあったのではないかと思われ、他の形式と繋いだ際に相性が悪かった9000形を、少しでも併結する運用に入れないという意図もあったのではないでしょうか。
現在のような運用であれば、間違いなく9000形のみで組んだ10両を9本組成するのでしょうが、当時は分割併合が盛んに行われていたので、9000形と他形式の併結を避けることはできませんでした。
急行で併結して暴れている6両に対し、4両は安定した走りをしていました。
4両で唯一他形式と日常的に併結していた9007Fという編成も存在しますが、こちらも相当な暴れっぷりを発揮し、運転士を泣かせていたようです。
東京メトロの千代田線に直通する車両として登場しましたが、1000形にその役目を譲った後は地上専用車として活躍していました。
地上専用車になった後の9000形ですが、10両を組んで地下鉄に直通していた時とは違い、4両と6両で違った使われ方をするようになりました。
6両は5000形に似た使い方をされるようになり、優等列車を中心として活躍するようになります。
反面、4両は2本を繋いだ8両で各停を中心として使われ、かなり用途が分かれていたのです。
9000形で8両を組むと、オールMの編成となってしまうのですが、これが高い高加減速を生み出せることから、各停用として重宝されたのです。
また、別の理由もあったのではないかと思われ、他の形式と繋いだ際に相性が悪かった9000形を、少しでも併結する運用に入れないという意図もあったのではないでしょうか。
現在のような運用であれば、間違いなく9000形のみで組んだ10両を9本組成するのでしょうが、当時は分割併合が盛んに行われていたので、9000形と他形式の併結を避けることはできませんでした。
急行で併結して暴れている6両に対し、4両は安定した走りをしていました。
4両で唯一他形式と日常的に併結していた9007Fという編成も存在しますが、こちらも相当な暴れっぷりを発揮し、運転士を泣かせていたようです。
コメント
コメント一覧 (2)
小田急9000形は沿線にスタジオを持つウルトラマンをイメージした顔だとか聞いたこともありますが、やはり表参道や赤坂、大手町に入る車両になるべくモデルチェンジしたことは否めません。そしてこの顔を一時は東急新8000系(後の8000系8500形)でもセミリメイクして採用する案が出たとか…1989年頃の鉄道ファンの土岐先生の連載で記していたのを覚えてます。同期の京王6000系も沿線の雑木林を抜けるイメージから完全に一新して新宿副都心や多摩ニュータウンをイメージしたゆえのデザインになったことは否めません。関西でも神戸電鉄3000形は六甲を攻略してニュータウンに販路を広げる当時の意気込みを車両デザインに投影していたように感じます。
しかし、車両デザインを決めるチームと直接縁の下で油まみれになりながら保守、点検をするチームは絶対に噛み合いません。同時期に国鉄が労使紛争に苛まれるようになると、突拍子もないデザインも一時的に自粛を余儀なくされ、小田急でも5000形200番台では再び小田急顔が復活したのは周知の如くです。
時代背景に振り回されながら、本来の性能を発揮出来なかったのが小田急9000形だったのかもしれません。地下鉄直通車両としては先輩でしかも製造から55年も堺筋線に直通してる阪急3300系が本当にラッキーな車両だと思います。
ワタシダ
がしました
子供の頃、千代田線経由で小田急線に乗りに行くのが楽しみでした。
下北沢で箱根湯本ゆき、小田原ゆきの先頭で駆け下りてくる姿を待っていたのを思い出します。
ポケットカメラ手にした時、一眼レフ買った時、最初に撮ったのは9000系です。
ワタシダ
がしました