営団地下鉄(現在の東京メトロ)千代田線への乗り入れが1978年から始まった小田急9000形ですが、1990年には直通運用から撤退し、小田急線内専用車となりました。
乗り入れていた期間は約12年しかなく、実際にはとても短かったのです。
小田急線内専用車となった後、地下鉄直通用の機器については撤去が行われ、4両の車体修理が進められました。
車体修理は4両から進められ、1992年までに全9編成の施工が完了、1994年からは6両への施工が開始されました。
6両は車内の配色が1000形に準じた暖色系とされ、4両の寒色系とは異なるものとなっています。
1996年には6両も全9編成の施工が完了し、9000形は全車両が更新車となりました。
地上のみを走るようになった9000形は、他の形式と同様の使われ方をするようになりましたが、4両と6両では用途が異なっていました。
全てが電動車となる4両は、2編成を組み合わせて8両を組み、高加減速性能を活かして各停用として使われました。
後々には、9001Fと9002F、9003Fと9004F、9005Fと9006F、9008Fと9009Fが実質的に固定編成として扱われ、余った9007Fのみが5000形等と同様に急行を中心として使われていました。
検査で入場する編成があると、9007Fが8両の運用に入り、抜けた編成の穴を埋めていました。
6両は5000形や8000形と同じ使われ方で、優等列車を中心として活躍し、箱根登山線にも乗り入れました。
しかし、他形式と併結した際の相性は悪かったようで、乗務員を悩ませたと聞きます。
2000年には、4両の編成で8両を組んだ際に中間に入る先頭車の運転台機器が撤去され、9001Fから9006Fまでの編成に施工されました。
前照灯が撤去された特異な前面の車両となりましたが、通常は中間に挟まっていたため、その姿をしっかりと見られる機会はほとんどありませんでした。
2600形の置き換えが2000年から開始されると、徐々に9000形にも置き換えの時期が迫っているとの噂が聞こえ始めます。
次回は最終回として、9000形の最後の活躍について書きたいと思います。
乗り入れていた期間は約12年しかなく、実際にはとても短かったのです。
小田急線内専用車となった後、地下鉄直通用の機器については撤去が行われ、4両の車体修理が進められました。
車体修理は4両から進められ、1992年までに全9編成の施工が完了、1994年からは6両への施工が開始されました。
6両は車内の配色が1000形に準じた暖色系とされ、4両の寒色系とは異なるものとなっています。
1996年には6両も全9編成の施工が完了し、9000形は全車両が更新車となりました。
地上のみを走るようになった9000形は、他の形式と同様の使われ方をするようになりましたが、4両と6両では用途が異なっていました。
全てが電動車となる4両は、2編成を組み合わせて8両を組み、高加減速性能を活かして各停用として使われました。
後々には、9001Fと9002F、9003Fと9004F、9005Fと9006F、9008Fと9009Fが実質的に固定編成として扱われ、余った9007Fのみが5000形等と同様に急行を中心として使われていました。
検査で入場する編成があると、9007Fが8両の運用に入り、抜けた編成の穴を埋めていました。
6両は5000形や8000形と同じ使われ方で、優等列車を中心として活躍し、箱根登山線にも乗り入れました。
しかし、他形式と併結した際の相性は悪かったようで、乗務員を悩ませたと聞きます。
2000年には、4両の編成で8両を組んだ際に中間に入る先頭車の運転台機器が撤去され、9001Fから9006Fまでの編成に施工されました。
前照灯が撤去された特異な前面の車両となりましたが、通常は中間に挟まっていたため、その姿をしっかりと見られる機会はほとんどありませんでした。
2600形の置き換えが2000年から開始されると、徐々に9000形にも置き換えの時期が迫っているとの噂が聞こえ始めます。
次回は最終回として、9000形の最後の活躍について書きたいと思います。
コメント
コメント一覧 (4)
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地下鉄乗り入れはラッシュ時だけでそれ以外は6両と4両に分割して使うことも不可能ではなかったでしょうが、どこかで再結合が必要でダイヤが乱れた場合まで考えると難しかったでしょう。
日中9000形は千代田線内を往復していたのを記憶しています。
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