相模大野から分岐して江ノ島線に入ると、東林間、中央林間、南林間と似たような名前の駅が続きます。
小田急でここまで似たような駅名が続く区間は他にありませんが、この3駅がこのような名称になったのには理由があります。
この3駅は江ノ島線の開業に合わせて設置されました。
計画時に予定されていた駅名は、東林間が中和田、中央林間が公所、南林間が相模ヶ丘でしたが、開業直前に変更されました。
変更後の駅名は、東林間都市、中央林間都市、南林間都市で、現在の駅名の後ろに都市が入ったものでした。
駅名に都市を入れたとはいえ、開業当時の付近一帯は人家すらないような土地でした。
小田急の創業者である利光鶴松は、ここに計画都市を開発し、開業後の増収を図ろうとしたのです。
林間都市計画は実に壮大なもので、住宅地の建設だけではなく、学園やスポーツ施設、工場等も建設する構想でした。
しかし、昭和初期の不景気や戦時体制の影響で宅地の分譲は思うように進まず、林間都市構想は頓挫してしまいました。
1941年には駅名から都市が外され、そのまま現在まで続いています。
この一帯が発展したのは戦後になってからで、高度経済成長で宅地需要が増大し、南林間を中心として発展していきました。
1984年には東急田園都市線が中央林間まで延伸し、ベッドタウンとして今日まで発展が続いています。
田園都市線の開業後は、中央林間を中心とした発展が続き、乗降客数も開いていきました。
小田急の創業者が夢見た林間都市構想は、当初の思惑とは違うものの、戦後に都市としての発展を遂げました。
もしも構想どおりに進んでいたら今頃どんな風になっていたのか、そんな想像をしてみるのも楽しいかもしれませんね。
小田急でここまで似たような駅名が続く区間は他にありませんが、この3駅がこのような名称になったのには理由があります。
この3駅は江ノ島線の開業に合わせて設置されました。
計画時に予定されていた駅名は、東林間が中和田、中央林間が公所、南林間が相模ヶ丘でしたが、開業直前に変更されました。
変更後の駅名は、東林間都市、中央林間都市、南林間都市で、現在の駅名の後ろに都市が入ったものでした。
駅名に都市を入れたとはいえ、開業当時の付近一帯は人家すらないような土地でした。
小田急の創業者である利光鶴松は、ここに計画都市を開発し、開業後の増収を図ろうとしたのです。
林間都市計画は実に壮大なもので、住宅地の建設だけではなく、学園やスポーツ施設、工場等も建設する構想でした。
しかし、昭和初期の不景気や戦時体制の影響で宅地の分譲は思うように進まず、林間都市構想は頓挫してしまいました。
1941年には駅名から都市が外され、そのまま現在まで続いています。
この一帯が発展したのは戦後になってからで、高度経済成長で宅地需要が増大し、南林間を中心として発展していきました。
1984年には東急田園都市線が中央林間まで延伸し、ベッドタウンとして今日まで発展が続いています。
田園都市線の開業後は、中央林間を中心とした発展が続き、乗降客数も開いていきました。
小田急の創業者が夢見た林間都市構想は、当初の思惑とは違うものの、戦後に都市としての発展を遂げました。
もしも構想どおりに進んでいたら今頃どんな風になっていたのか、そんな想像をしてみるのも楽しいかもしれませんね。
コメント
コメント一覧 (3)
尚、南側の南林間、真ん中の中央林間は分かるとして、北部にあるのに東林間の謎は未だ解明されず。
ワタシダ
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