温暖化が進む現代社会の日本において、なくてはならないものとなった冷房。
小田急では、1962年にロマンスカーのSEを冷房化改造して以降、1968年に2400形のクハ2478を冷房化改造し、通勤型車両で使用する場合の試験を経て、1971年に製造した5000形の3次車から本格的な冷房車の時代へと突入していきました。
冷房車の新造と非冷房車の改造によって冷房化を進めた小田急は、昭和の終わりが近付く頃に多くの車両が冷房車となりました。
1985年の段階で非冷房車となっていた車両は、経済的な高性能車ではあるが中型車の2400形、大型車ではあるが吊り掛け駆動の4000形という状況で、その総数は208両です。
収容力に問題はあるが性能は良い車両と、収容力は抜群だが性能に問題がある車両というこの難題を、小田急では2400形から4000形に主電動機を流用して高性能化、同時に4000形を冷房化改造することで解消することとしました。
随分と上手いことを考えたものです。
この取り組みは1985年から始まり、2400形の廃車と4000形の改造はセットで進められ、同時に8000形の増備を行うことで、小田急の冷房化率は一気に上昇していきます。
4000形の改造は1989年に完了し、2400形も同年に形式消滅しました。
約4年で行われたこの置き換えは、かなりハイペースだったといえるでしょう。
こうして小田急から非冷房車が短期間で一掃され、冷房化率100%を達成したのです。
1年に50両ぐらいのペースだったことを考えると、気付いたらなくなっているぐらいの感覚だったんでしょうね。
小田急では、1962年にロマンスカーのSEを冷房化改造して以降、1968年に2400形のクハ2478を冷房化改造し、通勤型車両で使用する場合の試験を経て、1971年に製造した5000形の3次車から本格的な冷房車の時代へと突入していきました。
冷房車の新造と非冷房車の改造によって冷房化を進めた小田急は、昭和の終わりが近付く頃に多くの車両が冷房車となりました。
1985年の段階で非冷房車となっていた車両は、経済的な高性能車ではあるが中型車の2400形、大型車ではあるが吊り掛け駆動の4000形という状況で、その総数は208両です。
収容力に問題はあるが性能は良い車両と、収容力は抜群だが性能に問題がある車両というこの難題を、小田急では2400形から4000形に主電動機を流用して高性能化、同時に4000形を冷房化改造することで解消することとしました。
随分と上手いことを考えたものです。
この取り組みは1985年から始まり、2400形の廃車と4000形の改造はセットで進められ、同時に8000形の増備を行うことで、小田急の冷房化率は一気に上昇していきます。
4000形の改造は1989年に完了し、2400形も同年に形式消滅しました。
約4年で行われたこの置き換えは、かなりハイペースだったといえるでしょう。
こうして小田急から非冷房車が短期間で一掃され、冷房化率100%を達成したのです。
1年に50両ぐらいのペースだったことを考えると、気付いたらなくなっているぐらいの感覚だったんでしょうね。
コメント
コメント一覧 (3)
ワタシダ
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まだわたしがガキだった時分で情報もなく、登戸駅で各停待ってて2600形来たかと思ったら4000形だったときは驚いたもんだ。
当時は好景気だったこともあり、他社も積極的に車両の更新をしていた時期でしたが、ステンレスなのに非冷房、吊り掛けなのに冷房、など微妙な形式も他社にはいましたが、その点小田急は単純明快。
古い車両:中型、非冷房、吊り掛け
新しい車両:大型、冷房、新性能
でクハ2478以外は完全に分類でき、最後の2400形を見送ったときはなんだか達成感すらあったわ。
どうもこのときの印象が強すぎて未だに大型冷房であれば新しい車両なような気がして1000形廃車の報に戸惑いをいだく今日。
当時は小田急内部でも多くの人が、大型冷房新性能であれば新しい車両のような心理を持っていたんじゃないでしょうかね。
車齢は2400形と数年しか違わない2600形のVVVF化改造を3編成もやろうと思ったわけですし。
ガラ空きの夏の昼下がり車内で上段窓を開けてさらに下段窓も最上まで上げて、多摩線下りを爆走する2400形。永山手前のトンネルに反響する電制音とモワッと入ってくる抵抗排熱。そんな感じがわたしの心象風景かも。
今年はコロナで窓開け走行が一般化していますが、これがちょっと懐かしい感じがしてます。1980年代を知っている人はそんな人も居るんじゃないかな。大変な時期ですがおそらくこの先貴重になるであろう窓開け走行を感じておきたいです。
ワタシダ
がしました
ワタシダ
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