全180両が出揃った5000形は、小田急の主力車両として活躍していきます。
急行用として登場した形式ですが、営団地下鉄(現在の東京メトロ)千代田線への乗り入れ以外は全てに対応できる車両だったため、小田急全線に活躍の場を広げていきました。
昭和の終わり頃の5000形は、4両が江ノ島線、6両が箱根登山線に乗り入れる急行を主体に運用されるようになります。
箱根登山線に大型車の6両が入れるようになってからは、5000形が最も輝くのが急行箱根湯本行きだったともいえます。
2400形の廃車が進むと、多摩線の列車が大型車の4両で運転されるようになり、比較的短い期間ながら多摩線内を5000形が往復する光景が見られました。
時代が昭和から平成に変わる頃になると、4両は小田急で白地の幕を装備する最後の形式となり、若干の古さを漂わせるようになっていきます。
初期車を中心に各部の老朽化が目立ち始めたことから、1990年度から4両の車体修理が開始されました。
外見的には、表示幕が自動化で黒地になったことや、側面の表示装置がランプ切り替え式から幕式に変更され、見た目の印象がだいぶ変わりました。
車内についても、化粧板を中心に配色が一新されたため、かなりイメージが違うものに仕上がっています。
車体修理は1996年までに4両の14編成に対して施工され、その後は6両の施工に移行します。
5063Fだけが施工されずに取り残されてしまいますが、この続きは次回にしたいと思います。
急行用として登場した形式ですが、営団地下鉄(現在の東京メトロ)千代田線への乗り入れ以外は全てに対応できる車両だったため、小田急全線に活躍の場を広げていきました。
昭和の終わり頃の5000形は、4両が江ノ島線、6両が箱根登山線に乗り入れる急行を主体に運用されるようになります。
箱根登山線に大型車の6両が入れるようになってからは、5000形が最も輝くのが急行箱根湯本行きだったともいえます。
2400形の廃車が進むと、多摩線の列車が大型車の4両で運転されるようになり、比較的短い期間ながら多摩線内を5000形が往復する光景が見られました。
時代が昭和から平成に変わる頃になると、4両は小田急で白地の幕を装備する最後の形式となり、若干の古さを漂わせるようになっていきます。
初期車を中心に各部の老朽化が目立ち始めたことから、1990年度から4両の車体修理が開始されました。
外見的には、表示幕が自動化で黒地になったことや、側面の表示装置がランプ切り替え式から幕式に変更され、見た目の印象がだいぶ変わりました。
車内についても、化粧板を中心に配色が一新されたため、かなりイメージが違うものに仕上がっています。
車体修理は1996年までに4両の14編成に対して施工され、その後は6両の施工に移行します。
5063Fだけが施工されずに取り残されてしまいますが、この続きは次回にしたいと思います。
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