近郊区間の輸送力を増強するため、20m級の大型車体を採用した小田急2600形。
登場時は5両固定編成となっていましたが、後に付随車を追加して全編成が6両化されました。
車両の性格上、各停を中心として使われていたことや、全ての編成が6両だったことから、他形式との併結を行わない形式でしたが、1983年3月22日のダイヤ改正から併結運転が開始されました。
今回は2600形の併結運転開始と、その後の制限や動きについてまとめたいと思います。
各停を中心とした運用であったことや、車両特性が異なるというのがその理由でしたが、10両の列車が増加していくと、4両と編成を組む6両が不足することとなり、1981年から他形式との併結試運転が行われるようになります。
その結果を踏まえて、1983年3月22日のダイヤ改正で他形式との併結を伴う運用が設定され、10両編成として走る2600形が日常的に見られるようになりました。
急行の主力となったわけではないため、5000形等に比べると併結の機会自体は少なく、サポート役を担っていたといえるでしょう。
併結運転の開始によって2600形の活躍の幅は広がり、柔軟な運用を組むことができるようになりました。
当時はまだ2400形も優等運用に充当されていたため、過渡期ならではの面白い組成を見ることもできました。
一つ目は併結する際の順序です。
現在の小田急では、小田原方に6両、新宿方に4両を配置することが基本となっていますが、併結運転開始当時は小田原方に4両、新宿方に6両を配置する逆10両の運用がありました。
2600形は小田原方に制御車と付随車が連続し、逆10両を組んだ場合には、他形式の制御車と合わせて3両の非電動車が連続してしまうため、この配置は禁止とされ、逆10両にならない運用に制限されていたのです。
もう一つは走行できる範囲です。
2600形は箱根登山線への乗り入れが禁止されていたため、箱根湯本行きの急行には充当することができませんでした。
そのため、急行の場合には小田原行きや江ノ島線方面の運用が主体となり、5000形等とは完全に運用が分かれていました。
このダイヤ改正では、箱根登山線に直通する急行の増発が行われ、日中はそれまでの毎時2本から4本へと倍増することとなりました。
この増発に合わせ、2600形では側窓の改造が行われ、全開しない構造となったことにより、箱根登山線への乗り入れが解禁されることとなります。
箱根湯本行きの急行に充当できるようになったことで、2600形の優等運用は増加、晩年は急行や湘南急行での活躍が目立つようになりました。
引き続き箱根登山線への乗り入れが禁止され、小田原行きの急行が減ったことで活躍の幅が狭くなった4000形とは対照的な変化でした。
制限がほぼなくなり、大活躍を始めた2600形でしたが、2002年には6両の廃車が始まり、その期間はあまり長く続きませんでした。
そして、2004年に最後まで残った2670Fが引退、その歴史に幕を下ろしました。
併結運転の開始、箱根登山線への乗り入れによって活躍の幅を広げていきました。
そんな2600形の引退から15年以上が経過、併結運転の記憶も遠い過去のものとなっていきますね。
登場時は5両固定編成となっていましたが、後に付随車を追加して全編成が6両化されました。
車両の性格上、各停を中心として使われていたことや、全ての編成が6両だったことから、他形式との併結を行わない形式でしたが、1983年3月22日のダイヤ改正から併結運転が開始されました。
今回は2600形の併結運転開始と、その後の制限や動きについてまとめたいと思います。
2600形の他形式との併結運転開始
登場から約19年、2600形は試運転等を除いて他形式との併結運転を行いませんでした。各停を中心とした運用であったことや、車両特性が異なるというのがその理由でしたが、10両の列車が増加していくと、4両と編成を組む6両が不足することとなり、1981年から他形式との併結試運転が行われるようになります。
その結果を踏まえて、1983年3月22日のダイヤ改正で他形式との併結を伴う運用が設定され、10両編成として走る2600形が日常的に見られるようになりました。
急行の主力となったわけではないため、5000形等に比べると併結の機会自体は少なく、サポート役を担っていたといえるでしょう。
併結運転の開始によって2600形の活躍の幅は広がり、柔軟な運用を組むことができるようになりました。
当時はまだ2400形も優等運用に充当されていたため、過渡期ならではの面白い組成を見ることもできました。
2600形と他形式との併結運転時に残った制限
他形式との日常的な併結運転が始まった2600形でしたが、5000形や9000形の6両のような自由度があったわけではなく、二つの制限がありました。一つ目は併結する際の順序です。
現在の小田急では、小田原方に6両、新宿方に4両を配置することが基本となっていますが、併結運転開始当時は小田原方に4両、新宿方に6両を配置する逆10両の運用がありました。
2600形は小田原方に制御車と付随車が連続し、逆10両を組んだ場合には、他形式の制御車と合わせて3両の非電動車が連続してしまうため、この配置は禁止とされ、逆10両にならない運用に制限されていたのです。
もう一つは走行できる範囲です。
2600形は箱根登山線への乗り入れが禁止されていたため、箱根湯本行きの急行には充当することができませんでした。
そのため、急行の場合には小田原行きや江ノ島線方面の運用が主体となり、5000形等とは完全に運用が分かれていました。
箱根登山線への乗り入れ解禁と晩年の活躍
一部が8両固定編成に組み替えられ、6両は12編成となった2600形ですが、2002年12月2日のダイヤ改正で大きな転機が訪れます。このダイヤ改正では、箱根登山線に直通する急行の増発が行われ、日中はそれまでの毎時2本から4本へと倍増することとなりました。
この増発に合わせ、2600形では側窓の改造が行われ、全開しない構造となったことにより、箱根登山線への乗り入れが解禁されることとなります。
箱根湯本行きの急行に充当できるようになったことで、2600形の優等運用は増加、晩年は急行や湘南急行での活躍が目立つようになりました。
引き続き箱根登山線への乗り入れが禁止され、小田原行きの急行が減ったことで活躍の幅が狭くなった4000形とは対照的な変化でした。
制限がほぼなくなり、大活躍を始めた2600形でしたが、2002年には6両の廃車が始まり、その期間はあまり長く続きませんでした。
そして、2004年に最後まで残った2670Fが引退、その歴史に幕を下ろしました。
おわりに
時期によって使われ方が大きく変化した小田急2600形。併結運転の開始、箱根登山線への乗り入れによって活躍の幅を広げていきました。
そんな2600形の引退から15年以上が経過、併結運転の記憶も遠い過去のものとなっていきますね。
コメント
コメント一覧 (5)
ワタシダ
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付随車はモーターを使った回生制動、発電制動が無く、電動車とブレーキの効きが異なるのが問題かもしれません。
ワタシダ
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なぜそれが問題なのだろう…?………
Tc-T-T…と 先頭に付随車3両連続なら走行安定性とか、踏切事故時の不安とか…
理由の想像もつくのだが……
ワタシダ
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早朝とか回生電力の逃げ先ないと高速度で回生失効してかなり不安定な制動をする車両でしたから、高速度からの減速になる小田原急行の運用多用は慎重になったのでしょう。まあ、財務から累計走行距離伸ばしてから廃車しろと言われただけかもしれませんが。。
今日の高加減速のランカーブには絶対乗れない車両。
ただ、問題多かった分、印象に残る形式。
ワタシダ
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ワタシダ
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