1969年に登場し、4両が15編成、6両が20編成、合計180両が製造された小田急5000形。
小田急が急行の長編成化を進めている時期に登場した車両であり、8両化に合わせて4両が、10両化に合わせて6両が増備されました。

登場から晩年まで、元の編成を崩さずに5000形は使われますが、既に廃車が進行している2007年度に、6両から中間車を2両抜いた4両が登場します。
今回は、編成を短縮する改造が行われた経緯や、どのような編成があったのかについてまとめたいと思います。

3編成にだけ実施された編成の短縮改造

2000年に2600形から開始された通勤型車両の置き換えは、4000形と9000形まで進められ、2006年には5000形が最古参の形式となりました。
登場した順であれば、5000形は4両から廃車になりそうなものですが、最初に廃車となったのは6両の5259Fで、2006年から置き換えが始まりました。

廃車の順序が逆になった理由は定かではありませんが、当時増備されていた3000形で4両を製造することを避けたのかもしれません。
6両の5000形を優先して廃車は進められ、4両に初めての廃車が発生したのは2007年になってからでした。

2007年からは、新形式である4000形に置き換えられることとなり、4両と6両をセットで廃車して、10両固定編成化が進められていきました。
しかし、この時期の小田急では4両の車両が不足気味となっており、翌年のダイヤ改正から箱根登山線内が4両の各停で運行される計画もあったことから、5000形の6両を4両に短縮する改造を行い、古い編成を比較的新しい編成で置き換えることとなりました。

こうして登場したのが5200番台の4両で、2007年度に3編成が改造されました。
改造は集電装置が3基のままとなっていた編成に対して行われ、中間車のデハ5200とデハ5300を抜き、制御装置の限流値を変更、一部の機器を移設しています。

それぞれが個性的な短縮改造された3編成

編成の短縮改造が行われた3編成は、それぞれに個性があり、全ての編成に特徴がありました。
改造された順に、各編成を見てみることにしましょう。

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まずは最初に改造された5256Fです。
出場試運転は2007年12月8日に行われました。
前照灯がシールドビーム化されていた編成ですが、前面の車番の位置が他の編成よりも高くなっている異端車で、改造後もその特徴が残っています。

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続いて登場したのが5258Fです。
出場試運転は2007年12月28日に行われました。
3編成の中では唯一前照灯が原形で、小田急ファンの人気が高い編成でした。

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そして、最後に登場したのが5255Fです。
他の編成より少し遅れての登場で、出場試運転は2008年2月23日に行われました。
前照灯は5256Fと同様のシールドビームですが、こちらはぞろ目の車番を持つクハ5555が含まれている編成でした。

このように、かなり個性的な3編成が登場し、5000形の晩年を面白くすることとなりました。

実現しなかった箱根登山線専用車計画

公式には発表されていませんが、これらの3編成は箱根登山線内の専用車とする計画があったといわれています。
後に専用車となった1000形も当初は3編成のみで、短縮改造された5000形の編成数と一致しています。

塗装を変更し、現在の1000形のように使われる計画だったようなのですが、5000形ではなく1000形が使われるという結果になっています。
計画が変更されたとした場合の理由は定かではありませんが、車体の老朽化や、3編成だけ5000形を残すということを避けたのかもしれません。

他の5000形と共通運用で3編成は使われ、5000形の最晩年まで活躍することとなります。
2011年1月31日に6両の最後の編成が廃車となった後、4両の5000形だけが残りますが、5256Fが2011年5月19日、5258Fが2011年9月26日、5255Fが2012年1月10日に廃車となりました。
改造から廃車までは約4年しかなく、かなり短期間の活躍でした。

おわりに

短縮された編成が登場した後、側面が下降式の一枚窓で揃った10両が実現し、5000形の晩年を楽しいものとしてくれました。
しかし、その期間はあまりにも短く、私が当時一時的に小田急沿線を離れていたことが災いし、ほとんど記録を残せなかったことが悔やまれます。