従来車の主電動機等を流用し、1966年に登場した小田急4000形。
2600形と同様の車体に流用した機器を組み合わせた車両で、3両が22編成登場しました。
後に中間車を増備し、一部の編成が5両化されましたが、その際に増備された中間車はそれまでの車両と違う部分がありました。
4000形の3両を2編成、それに2両の1800形を連結し、8両で通勤輸送に対応することとなったのです。
理論上は両形式の連結に問題はありませんでしたが、1973年に両形式を連結した列車で二度の脱線事故が発生し、連結は中止されることとなりました。
その後、4000形だけで8両を組むために中間車が増備されることとなり、1974年から2両の中間車を編成内に追加し、一部の編成が5両化されました。
5両化されたのは全部で13編成で、3両のまま残った編成と連結し、8両を組んで使われました。
3両のまま残ったのは9編成ですから、5両のほうが編成数としては多くなりました。
通勤型車両でも冷房車の新車が当たり前の時代になりつつありましたが、4000形は当時非冷房であり、同時に冷房化することも困難だったことから、増備された中間車も非冷房で登場しています。
増備された中間車は、それまでの車両とあまり仕様の差がないようにされていますが、将来的な冷房化を考慮していたと思われる変更点がありました。
それは集電装置が取り付けられている位置で、車体の中心方向に80cm移動しており、5000形等と同じ冷房装置を搭載した場合の位置に合わせられていました。
その他にも、デハ4200の新宿方貫通路への仕切り扉の設置、側面に表示装置の取り付け準備、車内のヒーターの変更等が行われています。
こうして将来的な冷房化を考慮して登場した4000形でしたが、1985年からの高性能化と同時に行われた冷房化改造時においては、8000形と同仕様の冷房装置を搭載することとなり、集電装置の位置が活かされることはありませんでした。
将来的な考慮をしていたにもかかわらず、最新鋭の冷房装置を搭載するためにそれが活かされないという皮肉な結果となってしまいました。
2600形と同様の車体に流用した機器を組み合わせた車両で、3両が22編成登場しました。
後に中間車を増備し、一部の編成が5両化されましたが、その際に増備された中間車はそれまでの車両と違う部分がありました。
1974年以降に増備された26両の中間車
大型車で8両の列車を運転するため、1969年から4000形と1800形の連結が開始されました。4000形の3両を2編成、それに2両の1800形を連結し、8両で通勤輸送に対応することとなったのです。
理論上は両形式の連結に問題はありませんでしたが、1973年に両形式を連結した列車で二度の脱線事故が発生し、連結は中止されることとなりました。
その後、4000形だけで8両を組むために中間車が増備されることとなり、1974年から2両の中間車を編成内に追加し、一部の編成が5両化されました。
5両化されたのは全部で13編成で、3両のまま残った編成と連結し、8両を組んで使われました。
3両のまま残ったのは9編成ですから、5両のほうが編成数としては多くなりました。
追加で増備された中間車の仕様差
このような経緯で急遽製造されることとなった中間車ですが、1974年は既に5000形や9000形の増備に移行している時期でした。通勤型車両でも冷房車の新車が当たり前の時代になりつつありましたが、4000形は当時非冷房であり、同時に冷房化することも困難だったことから、増備された中間車も非冷房で登場しています。
増備された中間車は、それまでの車両とあまり仕様の差がないようにされていますが、将来的な冷房化を考慮していたと思われる変更点がありました。
それは集電装置が取り付けられている位置で、車体の中心方向に80cm移動しており、5000形等と同じ冷房装置を搭載した場合の位置に合わせられていました。
その他にも、デハ4200の新宿方貫通路への仕切り扉の設置、側面に表示装置の取り付け準備、車内のヒーターの変更等が行われています。
こうして将来的な冷房化を考慮して登場した4000形でしたが、1985年からの高性能化と同時に行われた冷房化改造時においては、8000形と同仕様の冷房装置を搭載することとなり、集電装置の位置が活かされることはありませんでした。
おわりに
冷房化改造が行われた車両としては、最後の形式となった4000形。将来的な考慮をしていたにもかかわらず、最新鋭の冷房装置を搭載するためにそれが活かされないという皮肉な結果となってしまいました。
コメント
コメント一覧 (8)
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何年か先を正確に見通すのは難しいようで……
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