小田原線の多くの列車が10両で運転されるようになり、10両固定編成の車両も増えてきた小田急。
1000形で初めて登場した10両固定編成は、その後3000形、4000形、5000形と編成数を増やし続け、4両と6両を繋いだ10両編成は少しずつ数を減らしています。

昔の小田急の10両といえば、4両と6両を繋いだ編成が当たり前でしたが、そもそもなぜ4両と6両になったのでしょうか。
相模大野で分割併合を行い、小田原線と江ノ島線を走行することを考えれば、全て5両にすれば都合が良かったようにも思います。
今回は、小田急がなぜ4両と6両を繋いだのか、その経緯を追ってみたいと思います。

小田急の長編成化

新宿と小田原を結ぶ小田急は、かつて多摩川を境として人口密度に大きな差がありました。
神奈川県内に入ると、宅地化されている地域が限られており、現在のように通勤路線化していくのは1960年代に入ってからのことです。

この頃からラッシュ時を中心に輸送力が不足するようになり、2400形からは車両が大量に増備されるようになっていきました。
1964年には急行の8両編成での運転が開始され、多くの列車が相模大野での分割併合を行うようになりました。
同じ1964年には、2600形が大型車の5両で登場し、各停についても長編成化が始まり、1967年からは6両化が行われています。

その後、1966年には準急の8両化が行われ、1969年には急行の大型車での8両運転を開始しています。
8両の列車は4両を2編成繋いだ編成が基本であり、運用の効率は比較的良かったといえるでしょう。
1977年にはついに急行の10両化が行われ、この時点でこれ以上の長編成化は現実的に難しくなりました。
準急についても1978年から10両化されましたが、都心部はホームを延長することが難しかったことから、各停の10両化が行われるのはかなり先のこととなっています。

小田急の10両はなぜ4両と6両の併結になったのか

現在ではロマンスカーでしか見られなくなりましたが、昔の小田急では途中駅での分割併合が頻繁に行われていました。
新宿から10両で走ってきた急行列車が相模大野で分割し、前の6両が箱根登山線に乗り入れる箱根湯本行き、後ろの4両が片瀬江ノ島行きになるといったもので、上り列車の場合にはその逆となっていました。

小田原方が4両で、新宿方が6両というパターンもあり、箱根登山線に大型車の6両が入れない頃には多く見られました。
変わり種としては4000形の5両を2編成繋いだ編成もあり、この場合は編成の丁度中間に先頭車が入ることとなります。

分割併合は、混雑度が異なる区間を効率的に運転できるというメリットがありましたが、4両の急行は混雑が激しいという課題がありました。
4000形で見られた5両を2編成繋ぐパターンは、輸送力の偏りを避けることができますが、なぜ他の形式はそうならなかったのでしょうか。
小田急が4両と6両を併結するようになったのは、歴史的な経緯と、ユニット方式が関係していると考えられます。

小田急の長編成化は、6両、8両、10両と、ホームの延長に合わせて段階的に進められてきました。
8両化が行われた時点で、4両を2本繋いだ編成が基本となり、これの片方を6両とすることで10両になったのが歴史的な経緯となっています。
つまり、4000形を除いた多くの車両が2両や4両であり、それを効率良く10両化するのには6両が適していたのです。

ここで一つの疑問が生じます。
4両の編成を5両化すれば、効率が良くなりそうなのです。
箱根登山線が4両までしか入線できなかったという事情はありますが、なぜ5両にはしなかったのでしょうか。

小田急の車両は、2200形以降基本的にユニット方式を採用してきました。
ユニット方式には様々なメリットがある反面、1両単位での編成調整がしにくいといったデメリットもありました。
小田急の車両を5両とする場合は4M1Tとなってしまい、10両では8M2Tとなってしまうことから、コスト面で圧倒的に不利だったのです。
1M方式の中間車を追加して、3M2Tとすることも不可能ではありませんが、これにも多くのデメリットがあることから現実的ではなかったといえます。

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結局のところ、小田急が10両編成を組む場合には、4両と6両を組み合わせるのが最も効率的だったということになります。
最終的には4000形も4両と6両に組み替えられ、小田急の通勤型車両は全て偶数の編成となりました。

おわりに

長編成化が進み、分割併合もなくなったことで、近年の小田急では固定編成化が進んでいます。
複数の編成を繋いだ長編成というのも、そのうち過去のものとなってしまうのでしょうね。