本日の記事は、鉄道趣味サイトのコラボ企画として、小田急の雑学を特集します。
Odapediaとしては初めての試みとなりますが、楽しんでいただけたら幸いです。
6月29日に記事を公開した鉄道プレスさんの次は、Odapediaがバトンを受け取ります。
JR西日本の221系が160km/hで走ったことがあるなんて、知らなかった私はとても勉強になりました。
さて、今回のコラボ企画では、各サイトで鉄道に関する雑学を取り上げます。
参加する各サイトを巡ることで、皆さまの知識が少しでも増えれば嬉しく思います。
このようなコラボが行われることとなったきっかけは、鉄道プレスさんの記事をご覧下さい。
今回の企画に参加するのは、公開順で以下のとおりです。
・鉄道プレス
・Odapedia
・社畜ゲートウェイ
・Style -Train Graphics-
各サイトがどのような特色を出して雑学をまとめるか、そんな点にもご注目下さい。
それでは、Odapediaらしく、小田急の雑学をまとめてみるとしましょう。
ケイプアイボリーの車体にロイヤルブルーの帯を巻くというこの塗装は、1700形以降の形式に採用されていますが、1700形と1900形のみは帯の幅が少し狭くなっていました。
これは窓の下にウインドシルがあったためで、塗装変更当初はウインドシルに重ねて正規の幅で帯が巻かれたものの、後に少し細くしてウインドシルの下に帯を巻くようになったためです。
それが2200形の2217Fと2220形で、同一編成内でドアが異なっている場合や、1両の中に違うドアが混在しているパターンがありました。
窓のサイズは同じでプレスドアかそうではないか、窓が大きいもの、このような3種類のドアがあったのです。
最も両数が多かったのはデニ1300形で、同じような外見の4両が在籍していていましたが、デニ1301のみは前面にある貫通扉の窓が少し小さく、他の編成と異なっていました。
小田急の場合は、パンタグラフの碍子が横を向いているといったものがあり、ちょっとした特徴となっていました。
最後は1700形や1900形で見られたようです。
大型車の乗り入れが可能となった後には、それまではなかった中型車の6両編成も短期間ながら存在し、2200系列のみで組まれた編成等が走っていました。
短期間だけ見ることができた貴重な光景でした。
小田急の2000形といえば、現在走っている形式をイメージする方が多いと思いますが、1950年から短期間だけ別の2000形が存在したのです。
初代ロマンスカーとして登場した1910形が、1950年に2000形とされていましたが、その後短期間で1900形に編入されて消滅しています。
1900形や2200形が使われ、のんびりと線内を行ったり来たりしていましたが、開業当初は意外にも4両編成が走っていたのです。
あまりにも多摩線の乗客が少なかったため、4両から2両に減車されたという経緯があり、そこから10両が走る路線まで発展してきました。
それが現在の東海大学前で、1987年に改称されるまでは大根でした。
実際にはダイコンではなくオオネと読みますが、知らない人はダイコンと読んでしまいそうですね。
運転上は相模大野から分かれていきますが、実際の分岐点は相模大野から小田原寄りに200m進んだ位置にあります。
相模大野を出発した列車は、少しだけ小田原線を走っているということになるのです。
太い線が柱に巻かれているのですが、この本数が駅ごとに異なっており、五月台は1本、栗平は2本と増えていき、終点の唐木田では7本となっています。
これに気付いている利用者がどれぐらいいるのかは分かりませんが、乗務員向けのものなのかもしれませんね。
デザインのセンスがない私は、コラボ用の画像も鉄道プレスさんに助けていただきました。
そして、いつも仲良くしていただき、今回のコラボでも色々と助けていただいた皆さまに、この場を借りて深く御礼申し上げます。
明日以降もコラボ記事の公開が続きますので、是非ご覧下さい。
社畜ゲートウェイさんは、どのように雑学をまとめてくるのでしょうか。
今回だけで終わらせず、またやってみたいと思っていますので、関係者の皆さま、何卒よろしくお願いいたします。
Odapediaとしては初めての試みとなりますが、楽しんでいただけたら幸いです。
6月29日に記事を公開した鉄道プレスさんの次は、Odapediaがバトンを受け取ります。
JR西日本の221系が160km/hで走ったことがあるなんて、知らなかった私はとても勉強になりました。
さて、今回のコラボ企画では、各サイトで鉄道に関する雑学を取り上げます。
参加する各サイトを巡ることで、皆さまの知識が少しでも増えれば嬉しく思います。
このようなコラボが行われることとなったきっかけは、鉄道プレスさんの記事をご覧下さい。
今回の企画に参加するのは、公開順で以下のとおりです。
・鉄道プレス
・Odapedia
・社畜ゲートウェイ
・Style -Train Graphics-
各サイトがどのような特色を出して雑学をまとめるか、そんな点にもご注目下さい。
それでは、Odapediaらしく、小田急の雑学をまとめてみるとしましょう。
ロイヤルブルーの帯が細かった車両
小田急といえば、青い帯を巻いている姿が基本となっており、その幅は300mmとされています。ケイプアイボリーの車体にロイヤルブルーの帯を巻くというこの塗装は、1700形以降の形式に採用されていますが、1700形と1900形のみは帯の幅が少し狭くなっていました。
これは窓の下にウインドシルがあったためで、塗装変更当初はウインドシルに重ねて正規の幅で帯が巻かれたものの、後に少し細くしてウインドシルの下に帯を巻くようになったためです。
車両によってドアの形状が違っていた形式
5000形の6両編成のように、増備の途中でドアの仕様が変更される場合はありますが、同一の形式内で3種類のドアがある形式がありました。それが2200形の2217Fと2220形で、同一編成内でドアが異なっている場合や、1両の中に違うドアが混在しているパターンがありました。
窓のサイズは同じでプレスドアかそうではないか、窓が大きいもの、このような3種類のドアがあったのです。
デニ1300形で貫通扉の窓が小さかった編成
小田急にもかつては荷物電車が在籍していました。最も両数が多かったのはデニ1300形で、同じような外見の4両が在籍していていましたが、デニ1301のみは前面にある貫通扉の窓が少し小さく、他の編成と異なっていました。
特徴的だったパンタグラフの碍子
昔の車両には現代の車両にはない特徴が多く、各社の個性となっているものもありました。小田急の場合は、パンタグラフの碍子が横を向いているといったものがあり、ちょっとした特徴となっていました。
最後は1700形や1900形で見られたようです。
箱根登山線に乗り入れた中型車の6両編成
箱根登山線に大型車の6両編成が乗り入れることが可能となったのは、1982年のことでした。大型車の乗り入れが可能となった後には、それまではなかった中型車の6両編成も短期間ながら存在し、2200系列のみで組まれた編成等が走っていました。
短期間だけ見ることができた貴重な光景でした。
現在の2000形は意外にも2代目
主に各駅停車で使われている2000形は、1995年に登場しました。小田急の2000形といえば、現在走っている形式をイメージする方が多いと思いますが、1950年から短期間だけ別の2000形が存在したのです。
初代ロマンスカーとして登場した1910形が、1950年に2000形とされていましたが、その後短期間で1900形に編入されて消滅しています。
乗客があまりにも少なすぎた多摩線
現在は10両編成も走るようになった多摩線ですが、開業当時は2両編成の列車が走っていました。1900形や2200形が使われ、のんびりと線内を行ったり来たりしていましたが、開業当初は意外にも4両編成が走っていたのです。
あまりにも多摩線の乗客が少なかったため、4両から2両に減車されたという経緯があり、そこから10両が走る路線まで発展してきました。
野菜の名前の駅
小田急には、かつて野菜と同じ名前の駅がありました。それが現在の東海大学前で、1987年に改称されるまでは大根でした。
実際にはダイコンではなくオオネと読みますが、知らない人はダイコンと読んでしまいそうですね。
相模大野駅ではない江ノ島線の分岐点
小田原線の相模大野から分岐する江ノ島線は、藤沢を経由して片瀬江ノ島までを結んでいます。運転上は相模大野から分かれていきますが、実際の分岐点は相模大野から小田原寄りに200m進んだ位置にあります。
相模大野を出発した列車は、少しだけ小田原線を走っているということになるのです。
ホームの柱を見ると位置が分かる多摩線
似たようなデザインの駅が多い多摩線ですが、ホームにある柱にはちょっとした工夫が施されています。太い線が柱に巻かれているのですが、この本数が駅ごとに異なっており、五月台は1本、栗平は2本と増えていき、終点の唐木田では7本となっています。
これに気付いている利用者がどれぐらいいるのかは分かりませんが、乗務員向けのものなのかもしれませんね。
コラボ企画の記事
今回コラボした各サイトの記事も是非ご覧下さい。おわりに
いつもと違うOdapediaはいかがでしたでしょうか。デザインのセンスがない私は、コラボ用の画像も鉄道プレスさんに助けていただきました。
そして、いつも仲良くしていただき、今回のコラボでも色々と助けていただいた皆さまに、この場を借りて深く御礼申し上げます。
明日以降もコラボ記事の公開が続きますので、是非ご覧下さい。
社畜ゲートウェイさんは、どのように雑学をまとめてくるのでしょうか。
今回だけで終わらせず、またやってみたいと思っていますので、関係者の皆さま、何卒よろしくお願いいたします。
コメント
コメント一覧 (32)
自分でも気がつかないうちに東海大学前になってて、全く違和感もなかったw
ワタシダ
がしました
個人的には次の話題が印象に残っています:
・混雑した江ノ島線の4両編成の急行
・「太陽に吠えろ」で聞かれたロマンスカーの警笛
・機械巻き上げ式種別表示で用意されていた「快速」の謎
・利用者にはわかりやすかった地上時代の下北沢駅の乗り換え
ワタシダ
がしました
「大根」は現在は「東海大学前」。ここの東海大学が「湘南校舎」を名乗っていて、地理の事情を知らない地方の受験生が、「湘南」の響きに憧れて受験し入学してみると、神奈川県央の海のない地域でガッカリするらしい、というのは「あるある話」のようですが。
ワタシダ
がしました
煌びやかな居酒屋やペデストリアンデッキがある近代的な駅でたしかに東海大前の駅名の方がしっくり来る印象がありますね、、、、。
ワタシダ
がしました
2200のプレスドアはなんとなく記憶にあります。
2400もプレスドアの編成とステンレスドアの編成があった記憶があります。
ワタシダ
がしました
中型車の10両編成を私は見てみたかった。
ワタシダ
がしました
1.1000形は車両全体の形式名としては初代と思われますが、個別形式を持つ車両としては2代目。
これは大東急時代に1000番台の車番が小田急の車両に対して付与されたためです。
2.小田原線は都県境を7回跨いでいる。柿生〜鶴川間で一旦東京都町田市に入り、その後町田を出た直後で再び神奈川県に入るかと思われた方も多いかと思いますが、実は鶴川〜玉川学園前間で4回都県境を跨いどります。
3.本厚木〜新松田間でロマンスカー以外が各駅に停車するのは駅間距離の関係による。
以前にも申し上げましたが、この区間は駅間距離が3km以上と長く、都心側における優等列車の停車駅間とほぼ同じくらいの距離に匹敵します。
4.多摩線は元々橋本方面への延伸計画があった。
多摩センターまで延伸した当初、京王相模原線と橋本まで併走して乗り入れる予定でしたが、採算性が合わへんっちゅうことで現在の唐木田〜相模原方面ルートに変更されました。唐木田車庫の線路が延伸を見据えた構造になっとるのはそのためです。
5.江ノ島線長後には当初横浜市営地下鉄ブルーライン及び相鉄いずみ野線が乗り入れる予定だった。
当初、長後には上記2路線が乗り入れる予定でしたが、地元住民からの反対で隣の湘南台に変更されました。そのせいで長後は南林間とともに江ノ島線の駅では不遇な立場となってまいました。
長文になってまい申し訳ありませんが、私が気づいた小田急に関するトリビアは上記の5つです。投稿者さんがバトンを受けられた方の記事も拝見させて頂きましたが、221系の160km/h走行試験は私も初耳でした。その成果が681系や223系で大いに活かされたことはとても感慨深いです。
ワタシダ
がしました
小田急旧2000形のように短期間だけ存在して欠番になった形式もありますが、小田急2400形や西武鉄道351~801系、営団地下鉄3000系のように
「車両番号がインフレしてて、実は…」という例もあります。
小田急に2500形が、西武に1000番台形式車が、営団に4000系がいなかったのはそのせいで、車両番号一つとるだけでも面白いですよね
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました