晩年は高性能化されながらも、1989年に全ての編成が改造されるまで、小田急で最後の吊り掛け駆動車として活躍していた4000形。
古い車両から足回りを流用した車両は、東武や名鉄等でも事例がありますが、小田急のように全編成が高性能化改造されたのは珍しいケースです。
4000形が改造された背景には、どのような事情があったのでしょうか。
輸送力の増強に追われる時代においては、車体が大きいというだけで、かなり重宝される面があったのです。
しかし、古い車両の整理が進んでいくと、4000形が抱える様々な問題点が目立つようになります。
4000形は、他の大型車に比べて、運用上の制限が多い車両でした。
偶数の両数とされている他の形式とは異なり、4000形は3両と5両の編成となっていました。
小田急で奇数の両数は珍しく、それだけで扱いにくい面がありました。
加えて、4000形は他形式との併結を行わなかったため、運用が限定されていました。
1800形と併結した実績があることや、高性能車との併結自体は不可能ではなかったようですが、最終的には避けていました。
限定運用にしても問題があり、4000形は最高速度が95km/hと遅く、高速運転には向かないという欠点がありました。
さらに、加速も良くはないため、高性能車が増えるとその点も問題視されるようになっていきます。
1984年に2200系列が形式消滅すると、非冷房の車両は2400形と4000形だけになり、他の車両と比べたサービスレベルの違いが問題視されるようになります。
冷房化改造を行えばこの問題を解決することができますが、車軸強度の問題で4000形を冷房車に改造することは困難でした。
一方で、2400形は冷房化改造自体は可能なものの、車体が小さいという問題がありました。
そこで、4000形が抱えている様々な問題を解消するため、2400形の主電動機を流用した高性能化改造が行われることとなりました。
同時に最後の中型車となった2400形を置き換えることで、小田急は大型車への統一と全車両の冷房化を短期間で進めたのです。
こうして4000形が抱えていた諸問題のほとんどは解決し、箱根登山線に乗り入れられないという制限以外はなくなりました。
電気制動は装備されなかったものの、こうして4000形は高性能車の仲間入りをすることができました。
大改造ではありましたが、上手く考えられたものだったといえそうですね。
古い車両から足回りを流用した車両は、東武や名鉄等でも事例がありますが、小田急のように全編成が高性能化改造されたのは珍しいケースです。
4000形が改造された背景には、どのような事情があったのでしょうか。
運用上の様々な制限
吊り掛け駆動という、旧態依然とした足回りだった4000形ですが、大きな車体は1800形と同様に重宝されていました。輸送力の増強に追われる時代においては、車体が大きいというだけで、かなり重宝される面があったのです。
しかし、古い車両の整理が進んでいくと、4000形が抱える様々な問題点が目立つようになります。
4000形は、他の大型車に比べて、運用上の制限が多い車両でした。
偶数の両数とされている他の形式とは異なり、4000形は3両と5両の編成となっていました。
小田急で奇数の両数は珍しく、それだけで扱いにくい面がありました。
加えて、4000形は他形式との併結を行わなかったため、運用が限定されていました。
1800形と併結した実績があることや、高性能車との併結自体は不可能ではなかったようですが、最終的には避けていました。
限定運用にしても問題があり、4000形は最高速度が95km/hと遅く、高速運転には向かないという欠点がありました。
さらに、加速も良くはないため、高性能車が増えるとその点も問題視されるようになっていきます。
そのままでは困難だった冷房化
4000形が抱える問題は他にもありました。1984年に2200系列が形式消滅すると、非冷房の車両は2400形と4000形だけになり、他の車両と比べたサービスレベルの違いが問題視されるようになります。
冷房化改造を行えばこの問題を解決することができますが、車軸強度の問題で4000形を冷房車に改造することは困難でした。
一方で、2400形は冷房化改造自体は可能なものの、車体が小さいという問題がありました。
そこで、4000形が抱えている様々な問題を解消するため、2400形の主電動機を流用した高性能化改造が行われることとなりました。
同時に最後の中型車となった2400形を置き換えることで、小田急は大型車への統一と全車両の冷房化を短期間で進めたのです。
こうして4000形が抱えていた諸問題のほとんどは解決し、箱根登山線に乗り入れられないという制限以外はなくなりました。
電気制動は装備されなかったものの、こうして4000形は高性能車の仲間入りをすることができました。
おわりに
高性能化によって、抱えていた様々な問題を一気に解決した4000形。大改造ではありましたが、上手く考えられたものだったといえそうですね。
コメント
コメント一覧 (23)
ワタシダ
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2回目の脱線事故後、即座に1800と4000の連結5連は解消され、それぞれの形式だけで編成を組むことになりました。その際1800は元々2連であったので、8連を組むことは可能でしたが、4000は3連でしたので、そのままでは8連が組めず、7輌のTcを外して休車とし、McM-McMTcとした暫定5連を組んで他の編成を足して8連としました。
この時点で1800+4000+4000で8連は、理屈の上では11本組めますが、単独編成での8連は、1800で2本、4000の暫定5連を利用した編成は7本しか組めません。つまり2編成分不足ということです(予備車無しで計算)。実際それで一部列車を6連運転と減車せざるを得なくなったとされています。
おっしゃるように5000×6本位を増備すれば、不足の編成数はまかなえますし、将来的にもよかったのでしょうが、経年の浅いクハ4050を7輌廃車にする(他編成に組み込むとすると、大改造を必要)などし、さらには暫定5連の中間McのM化が必要になるなど、当時の常識としては経済的で無いという判断になったのだと思われます。
結局休車されていたTc×7を復活させるため、MMを増備したというのが真相で、当時としてはやむを得ない判断だったのでしょう。もっとも収容力や加速に問題を抱えていた1700や1900、2100などを効果的に置き換えられる方法ではありましたね。
経堂通信さん
中間増備車の4200-4300番台については、種別表示窓が準備されていたり、パンタ位置が冷房装置と干渉しない位置とされていたなど(他にも4300番台のパンタは新製、ドアエンジンは新製など)、将来的な高性能化改造前提の設計だったと思いますが、具体的な検討はやはり2400の廃車が始まる直前になってからでしょう。
2400の主電動機流用も、当初から計画していたということはなさそうです。
ワタシダ
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2400形の電動機の流用することまで予定していたのでしょうか。
ワタシダ
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車体載せ換えと共に歯車比を低速用に替えられたため95キロどころか80キロぐらいでも
モーターがすさまじい唸りを上げており、苦しそうな走りでした。
私が興味を持つようになった頃は既に急行運用には就いておらず
江ノ島線や本厚木以西の各駅停車で見かけることが多かったですね。
ワタシダ
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旧4000の新製は、当初HBと同等性能で小形3連を大形3連に出来れば、コスト的に有利という判断で3連×22本が造られたわけです。この時点では他系列との併結は考慮していませんでした。実際小・中形車が大形車になり、性能は低下しなかったのでこの更新はうまく行っていたと思います。なお、主電動機以外にもドアエンジン、パンタ、CPが流用されています。
その後1975年頃の増備は、1800との脱線で、4000のみで編成を組むため、急遽中間車を増備することとし、そのためにまだ使えそうなABFを潰した(さらに荷電2輌も)のでした。これで4000のみで8連が組めることになりました。当然この時に4+4化(当時はまだ10連は計画が存在するのみ)、将来的な4+6化を検討しましたが、そうすると4連は3M1Tにしないと性能が維持できず、そのためには新しい制御器の設計が必要ということもあり、コスト的に不利なので4M1Tにして性能低下を防いだ経緯があります。これがその後輌数的に他形式との併結困難(5000と少なくとも8000は対応可能であった)の問題を呼びますが、最終的に4000のみの10連運転も実現はしているので、この改造歴に特別問題があったとは思えないのですが。
西武から箱根フリーパスさん
1800の台車は板バネではありませんよ。4000と連結する時代には、既に枕バネをコイルバネに改造済みでした。台車ブレーキにもなっています。これはHSCブレーキ化と、応荷重装置取り付けのためで(海老名検車区の職員さんに解説していただきました)、板バネだと「たわみと戻り」に時間が少しかかり、正しく荷重が測定できないのだそうです。
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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粘着重量を稼ぐために中間のモハが20m
4連に組むと中型車4連と同じ長さに… と車体の長さが変則的で、組み替えての長編成化も出来ない構成から…
2400型のままでの冷房化よりも部品供出で廃車しか選択肢はなかったでしょうね
4000型誕生時のように車体新造して床下機器流用で… では
半端な車が増えかねないし…
車体長やクモハでないなど他社譲渡も望めなかったし…
新造名義ながらモーターや床下機器流用で生まれた 4000型の更新時期と一致した(させた?)のもあってニコイチに…
4000型はサービス面や性能面で見劣りしてくると足回り更新や車体更新を繰り返して使い続ける一方で
輸送力増強分を新造するのが当たり前だった最後の世代の車… かな?
製造時から吊掛けのまま車体寿命が来る時まで使える… とは思っていなかっただろうし
新造した車体もろともスクラップにする気も無かっただろうし…
それにしても 4000型誕生時に旧車の車歴を引き継ぐ改造名義だったら…
何十年選手になっていたことか……
ワタシダ
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そして当時のラッシュでは車体が大きい=収容力が多いっていうのが相当強みになるくらい混雑してたのだとも…
ワタシダ
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ワタシダ
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あと、ギラギラに光り輝くブレーキディスクとガンダム等の一部分を連想させるクーラー側面のフィン状の開口部の組み合わせが、当時の子供心に妙にカッコ良く見えたものです。
ワタシダ
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2400形を流用しての高性能化、そして冷房化、他形式との編成両数の統一。また、20m車への統一と冷房化100%。私はこれを計画した小田急を凄いと思いました。
ワタシダ
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初期のHB車はともかくとして、ABF車まで種車にするくらいなら5000形を増備して8両急行を賄い、ローカルはABFを延命した方が無駄がなかった。
ワタシダ
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先代4000はツリカケ時代も高性能化時代も電装品流用でしたが2400は1両も譲渡や保存はありませんでしたが、モーターだけは無駄無く4000の高性能化に貢献出来ました。
それでも車体は40年使わずに廃車になってしまいましたね。
ワタシダ
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