沿線の開発が進み、近年は空き地が目立たなくなってきた小田急の多摩線。
開業時は沿線に建物がほとんどない地域が多く、2両編成の車両が空き地の中を走る光景が印象に残っている方も多いのではないでしょうか。
沿線が静かだった多摩線は、昭和の終わり頃から平成にかけて発展が続き、風景は大きく変化しました。
少しずつ変化してきた、多摩線の風景を振り返ってみたいと思います。
東京都か神奈川県かによっても差があり、小田急永山や小田急多摩センターの周辺はそれ以外の沿線よりも発展しつつありました。
多摩線の起点である新百合ヶ丘は、現在とは比較にならないぐらい何もない駅でした。
目立つ建物といえば役所ぐらいであり、現在は商業施設が目立つ南口エリアは閑散としていたのです。
そんな新百合ヶ丘を出発した多摩線は、五月台、栗平、黒川と進んでいきます。
五月台から栗平にかけては、既に一戸建ての住宅が並んでいましたが、それ以外の地域はまだ空き地がかなり目立つ状態でした。
線路から離れるほどその傾向は顕著で、高い建物はほとんど見られません。
一方で、東京都に入ると風景は変化し、駅の周辺には高い建物も見られるようになってきます。
商業施設も既にオープンしており、多摩ニュータウンの景色が広がっていました。
少しずつ戸建ては増えつつありましたが、現在のように多数のマンションが建っているような状況ではなく、まだまだのんびりとしていました。
1990年代の後半になると、徐々に高い建物が増加し始め、空き地は急速に目立たなくなっていきます。
それでも、発展の中心は五月台や栗平であり、黒川は開発から取り残された地域になっていきました。
2000年代になると、五月台や栗平の駅前にマンションが目立つようになり、一部に残っていた空き地も戸建てで埋められていきます。
小田急多摩センターには商業施設が増加し、現在のような風景が形成されつつあったのはこの頃です。
そんな中でも開発から取り残されていたのが黒川の周辺で、まだまだ自然豊かな風景が随所に見られました。
しかし、はるひ野が開業したことで状況は一変し、駅の周辺は空き地ばかりではあったものの、その後急速に発展していきました。
その一方で黒川の周辺は現在も空き地が目立っており、多摩線で最後まで昔ながらの風景が残るエリアとなっています。
しかし、神奈川県側は戸建てが多いこともあり、今も小田原線や江ノ島線よりものんびりとしていますね。
開業時は沿線に建物がほとんどない地域が多く、2両編成の車両が空き地の中を走る光景が印象に残っている方も多いのではないでしょうか。
沿線が静かだった多摩線は、昭和の終わり頃から平成にかけて発展が続き、風景は大きく変化しました。
少しずつ変化してきた、多摩線の風景を振り返ってみたいと思います。
昭和の終わり頃の沿線風景
開業当時に比べれば建物が増えてきていたものの、昭和の終わり頃になっても多摩線の沿線には空き地が目立っていました。東京都か神奈川県かによっても差があり、小田急永山や小田急多摩センターの周辺はそれ以外の沿線よりも発展しつつありました。
多摩線の起点である新百合ヶ丘は、現在とは比較にならないぐらい何もない駅でした。
目立つ建物といえば役所ぐらいであり、現在は商業施設が目立つ南口エリアは閑散としていたのです。
そんな新百合ヶ丘を出発した多摩線は、五月台、栗平、黒川と進んでいきます。
五月台から栗平にかけては、既に一戸建ての住宅が並んでいましたが、それ以外の地域はまだ空き地がかなり目立つ状態でした。
線路から離れるほどその傾向は顕著で、高い建物はほとんど見られません。
一方で、東京都に入ると風景は変化し、駅の周辺には高い建物も見られるようになってきます。
商業施設も既にオープンしており、多摩ニュータウンの景色が広がっていました。
平成に入ってからの多摩線の沿線風景の変化
平成に入ってからの多摩線も、神奈川県を中心として空き地が目立つ状況が続いていました。少しずつ戸建ては増えつつありましたが、現在のように多数のマンションが建っているような状況ではなく、まだまだのんびりとしていました。
1990年代の後半になると、徐々に高い建物が増加し始め、空き地は急速に目立たなくなっていきます。
それでも、発展の中心は五月台や栗平であり、黒川は開発から取り残された地域になっていきました。
2000年代になると、五月台や栗平の駅前にマンションが目立つようになり、一部に残っていた空き地も戸建てで埋められていきます。
小田急多摩センターには商業施設が増加し、現在のような風景が形成されつつあったのはこの頃です。
そんな中でも開発から取り残されていたのが黒川の周辺で、まだまだ自然豊かな風景が随所に見られました。
しかし、はるひ野が開業したことで状況は一変し、駅の周辺は空き地ばかりではあったものの、その後急速に発展していきました。
その一方で黒川の周辺は現在も空き地が目立っており、多摩線で最後まで昔ながらの風景が残るエリアとなっています。
おわりに
ほとんどのエリアが開発され、昔に比べれば空き地が目立たなくなった多摩線の沿線。しかし、神奈川県側は戸建てが多いこともあり、今も小田原線や江ノ島線よりものんびりとしていますね。
コメント
コメント一覧 (6)
僕は多摩線に関してですが唐木田延伸以降のことしか記憶に残っていないのですが、京王は唐木田延伸の数日後に南大沢から橋本に延伸され(橋本延伸当時は多摩境駅が未開業)、多摩センター・永山⇔新宿は京王が有利でした。一方、小田急は新宿直通を走らせたくてもダイヤに余裕がなく、平日朝の数本しか走っていませんでした。
その後、複々線化工事の進捗でホームウェイや多摩急行が登場し、多摩線沿線にも活気が生まれました。沿線の開発も進み、はるひ野駅が開業しました。しかしながらはるひ野駅は結局京王相模原線若葉台駅と徒歩圏内であり、こちらもどうしても京王に軍配が上がっていることも事実です。こちらは区間急行・快速に乗車すれば調布で特急・準特急が隣同士で乗り換えられることが大きいのです。小田急も複々線化工事完成後は多摩急行が廃止され、優等列車は全て新宿直通に変わりましたが、ラッシュ時は複々線が強みなのも多摩線の魅力につながったのではないかと思います。
多摩センターはそごう→三越→ココリアと変わりました。駅周辺は京王プラザホテル多摩、サンリオピューロランド、多摩モノレールの開業で多摩北部からのアクセスが改善されました。僕は多摩線の歴史を振り返っていく中で沿線光景もこの30年で変わったことを実感しています。
ワタシダ
がしました
当時の沿線はローカル線のような風景でしたが永山と多摩センターだけは既に団地群が広がっていましたね。
小田急も京王もまだ多摩センターが終点でしたが完全に京王に軍配が上がっている状況でした。
でも駅設備だけは立派で10両対応島式ホーム2面2線の設備が将来有効活用される日を妄想していました。
多摩センターの駅前に三越百貨店が出来て多摩の山の手なんてキャッチフレーズで宣伝されていた頃です。
ただそれなりに乗降客の多かった多摩センターも駅前に飲食店はまだ少なく居酒屋などほとんどありませんでした。
あれから30数年サンリオピューロランドのオープンや多摩モノレールの開通など多摩センター駅周辺はさらに発展を見せ小田急も優等列車を数多く走らせるも駅設備は未だ有効活用されておらず相模原への延伸を夢見る日が続いているのは残念ですね。
ワタシダ
がしました
とくにいまのはるひ野駅あたりは「原野」そのもので、定期券も持っているので一度記録しておこうと写真撮りにいって、「マムシに注意」の看板におどろいた記憶ある。
個人的には、無人駅だった五月台や黒川で、誰もいないホームに鳴り響く列車接近警報音がいまも強く印象に焼き付いている。
2400形が居なくなってからは急速に発展していったな。当時は、隣の京王相模原線を横目に、みすぼらしい2400形が好きだったわけじゃなかったけど、いまおもうと都民でありながら日常でローカル線を経験できた貴重な時間でした。
ワタシダ
がしました
小学校まで徒歩5分だった自分には、小学生ながらカルチャーショックを受けた記憶がある。
ワタシダ
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ワタシダ
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昔の多摩線の風景といえば、上屋が短い駅を思い浮かべます。
ワタシダ
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