小田急ロマンスカーの基礎を築き、日本の鉄道史にも残る名車となった3000形(SE)。
それまでの車両とは全く異なるコンセプトで設計され、格下げを考慮しない特急専用車として登場しました。

しかし、実際には当初の想定どおりとはならなかった部分が多く、波瀾万丈の物語を展開していくこととなりました。

それまでの車両とは全く異なるコンセプト

新宿から小田原までを60分で結ぶことを目標として、それまでとは全く違う車両として計画された3000形は、1957年にデビューしました。
当時としては派手なカラーリングは、人々の注目を集めるには十分すぎるものだったでしょう。

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3000形には様々な特筆すべき点がありますが、コンセプトを簡単にまとめると、以下のようになります。

・徹底的な軽量化
・新宿から小田原までを60分で走破できる高速性能
・耐用年数を10年に設定
・技術的に優れた機器や部品の採用
・格下げを考慮しない設計
・連接構造の採用

ロマンスカーだけではなく、その後の車両設計に通じているものもありました。
こうして画期的な車両がデビューすることとなりましたが、登場後は波瀾万丈の生涯を歩むこととなるのです。

登場から引退までの波瀾万丈の生涯

当初は10年程度の使用を想定して登場した3000形ですが、結果としては長期間に渡って使われることとなります。

最初の波乱は1962年のことでした。
軽量化に反することや、座席数が減少することを避けるために見送られた冷房が搭載されたのです。
他社の特急が冷房装置を搭載し始めたことで、非冷房のままとはいかなくなったのが理由でした。

そして、当初想定していた耐用年数である10年が過ぎた頃、1968年には国鉄の御殿場線に乗り入れるための大改造が行われることとなります。
長期使用を容認することへの方針の転換と、格下げに近い用途の変更は、3000形の生涯の中で最も大きなトピックスだったといえます。
この改造によって編成の両数は短縮され、前面形状も変更されました。

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こうして脇役となった3000形ですが、そのまま引退に向かうことはありませんでした。
登場から20年以上が経過しても使用が続けられ、細かい改造を重ねながら日々の輸送を支えることとなるのです。

しかし、7000形(LSE)が登場したことでロマンスカーの編成数に余裕が生まれたことから、1983年に初めて編成単位での廃車が発生します。
廃車となった編成は大井川鉄道に譲渡されますが、上手く活用されないまま1987年に運用から外れてしまいました。

小田急に残った仲間も廃車が進みそうなところですが、3000形の波瀾万丈の生涯はまだ続きます。
さすがに置き換えが必要な時期となるものの、当時の国鉄側の事情がそれを許さず、4編成に対して車体修理を行って継続使用することとなるのです。
1984年から始まった車体修理は、車齢が25年を超える状況で行われたものでした。

3000形がようやく役目を終えることができるようになったのは、20000形(RSE)が登場した1991年のことでした。
しかし、定期運用から離脱した後も波動用として短期間ながら残され、1992年のさよなら運転後に廃車となりました。

デビューから35年、当初想定の3倍以上の年数を走り続け、3000形は長い生涯を閉じたのです。

おわりに

多くの方にとっては、御殿場線に乗り入れる改造が行われた後の姿が、3000形のイメージなのかもしれません。
そして、3000形が波瀾万丈の生涯となった背景には、御殿場線に乗り入れる役目を担ったことが、深く関係していたともいえそうです。