小田原線から江ノ島線が分岐し、近くには大野総合車両所が設けられている小田急の相模大野駅。
2面6線の大規模な設備の駅となっていますが、昔はここまで大規模な駅ではなく、1990年代に行われた改良工事によって現在の姿となりました。
改良工事が行われたことによって、相模大野にはどのような変化があったのでしょうか。
当時は駅ではありませんでしたが、陸軍通信学校が移転してきたことに伴い、1938年4月1日に駅となり、通信学校駅となりました。
この駅名だった期間は短く、戦時中に相模大野と改称されています。
相模大野に大きな変化があったのは、1962年に大野工場が開設されたタイミングで、小田急の要衝として発展を続けることとなります。
分割併合が盛んだった時代には、相模大野がその役目のほとんどを担っており、前後の車両が切り離されて、それぞれが小田原と片瀬江ノ島方面に走っていきました。
改良前の相模大野は2面4線の駅で、現在の海老名に似た雰囲気でした。
ホームはそこまで広くなく、乗り換えが多い駅としては少々頼りない状態だったといえます。
駅舎は小田原寄りにありましたが、新宿寄りにも跨線橋が設置されており、小田原線と江ノ島線の乗換駅であることを物語っていました。
周辺の地形も変更する大規模なものであり、町田から相模大野の区間は掘り下げられ、踏切の廃止等も行われています。
改良工事の最も目立つ部分としては、通過線を新設することによる2面6線への変更です。
この改良によって通過列車が追い抜きをしやすくなりました。
ホームの幅も広げられ、最大8mだったものが改良後は12mとなっています。
構内が刷新されたことに伴い、線路の配線についても見直しが行われました。
新宿方には10両に対応した引き上げ線が設けられ、相模大野で折り返す列車の設定がしやすくなりました。
駅舎についても全面的に改良され、広々としたコンコースが整備されています。
それまではなかった駅ビルも建設され、相模大野ステーションスクエアがオープンしました。
改札からはペデリストリアンデッキに接続するようになり、現在の近代的な景色へと大変貌を遂げたのです。
こうして1998年8月に改良工事は完了し、現在見られるような相模大野が完成しました。
その後も小規模な改良は行われていますが、大きく変化することはなく現在に至っています。
拡張可能な土地が周囲にあったことで、立派な駅へと大変貌を遂げることとなりました。
2面6線の大規模な設備の駅となっていますが、昔はここまで大規模な駅ではなく、1990年代に行われた改良工事によって現在の姿となりました。
改良工事が行われたことによって、相模大野にはどのような変化があったのでしょうか。
現在よりも小規模な駅だった相模大野
江ノ島線の開業に合わせて、1929年4月1日に大野信号所が開設されました。当時は駅ではありませんでしたが、陸軍通信学校が移転してきたことに伴い、1938年4月1日に駅となり、通信学校駅となりました。
この駅名だった期間は短く、戦時中に相模大野と改称されています。
相模大野に大きな変化があったのは、1962年に大野工場が開設されたタイミングで、小田急の要衝として発展を続けることとなります。
分割併合が盛んだった時代には、相模大野がその役目のほとんどを担っており、前後の車両が切り離されて、それぞれが小田原と片瀬江ノ島方面に走っていきました。
改良前の相模大野は2面4線の駅で、現在の海老名に似た雰囲気でした。
ホームはそこまで広くなく、乗り換えが多い駅としては少々頼りない状態だったといえます。
駅舎は小田原寄りにありましたが、新宿寄りにも跨線橋が設置されており、小田原線と江ノ島線の乗換駅であることを物語っていました。
改良工事によって大きく変わった相模大野
相模大野の改良工事は、1992年3月から始まりました。周辺の地形も変更する大規模なものであり、町田から相模大野の区間は掘り下げられ、踏切の廃止等も行われています。
改良工事の最も目立つ部分としては、通過線を新設することによる2面6線への変更です。
この改良によって通過列車が追い抜きをしやすくなりました。
ホームの幅も広げられ、最大8mだったものが改良後は12mとなっています。
構内が刷新されたことに伴い、線路の配線についても見直しが行われました。
新宿方には10両に対応した引き上げ線が設けられ、相模大野で折り返す列車の設定がしやすくなりました。
駅舎についても全面的に改良され、広々としたコンコースが整備されています。
それまではなかった駅ビルも建設され、相模大野ステーションスクエアがオープンしました。
改札からはペデリストリアンデッキに接続するようになり、現在の近代的な景色へと大変貌を遂げたのです。
こうして1998年8月に改良工事は完了し、現在見られるような相模大野が完成しました。
その後も小規模な改良は行われていますが、大きく変化することはなく現在に至っています。
おわりに
広々としたホームを備え、改良工事後は余裕がある設備となった相模大野。拡張可能な土地が周囲にあったことで、立派な駅へと大変貌を遂げることとなりました。
コメント
コメント一覧 (34)
30年前は、今では想像できない程の小さな駅でした。
まさかこんなに便利でみごとになるとは…
ワタシダ
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混雑時には小田原方の手すりに付けられた木製の台で食えと言う感じの構えだった記憶があります。
冬の寒い雨天時に電車を見ながら風を感じながらで食すなどという、今では考えられない贅沢。
ワタシダ
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ワタシダ
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その位置は『分割案内板A』より後ろ4両ぶん、つまり江の島線方面の場所でした。
新宿から来た10両の急行のうち、前6両はそのまま急行で小田原行き(全て冷房付き)でサッサと発車、
後ろ4両は何故か各停に化ける藤沢行きになり、隣に来た各停本厚木行きにも先発され更に大野止まりが到着してからやっと発車してました。
大野のホームで梅雨時にこの列車を待つときは濡れながら待ち、到着しても発車まですし詰めの2400系(非冷房、中型車)で待つしか無く、小田原方面に比べ江の島線民であることが惨めでした。
ワタシダ
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改良工事前の相模大野駅ですが、残念ながら僕の記憶に残っていません。しかし、改良工事後は小田原線と江ノ島線が分岐するジャンクション駅として大きく印象が変わりました。特急ロマンスカーの停車駅に相模大野駅が追加されたときに、「えのしま」の停車駅は町田から相模大野に全て変更され、「はこね/えのしま」の連結・切り離しに関しても町田駅から相模大野駅で行われるようになりました。かつては「あさぎり/えのしま」の連結切り離しを同駅で行っていました。
千代田線直通列車は2000(平成12)年12月改正から2002(平成14)年3月改正までの1年3カ月でしたが、相模大野発着で運転していた時期がありましたね。一度町田から上り直通準急に乗車したら、車内はガラガラだった記憶があります。現在、日中ダイヤの千代田線直通列車は向ヶ丘遊園発着が多いこともあり、僕の記憶では明るい時間帯に小田急線の都区内区間以外で地下鉄車両に乗れたのは上り直通準急と多摩急行くらいなので、今となっては思い出です。
ワタシダ
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かなりのスペースから見るとすれば昔からこの姿で成り立っているのだろうと思っていたモノで…。
通過線の存在も魅力的で少々構内は暗いですがロマンスカーの通過は迫力満点だと思います。
下りホーム小田原寄りに立ち食い蕎麦のスタンドがあるのも便利ですよね。
駅ビルもまた立派で本厚木や町田しかり、小田急沿線には、こう言ったスタイルが多いですね。
今、実施してるスタンプラリーで各駅を周るといかに小田急が沿線開発に力を入れていたのが実感できます。
因みにスタンプラリーで集めた車両カードですが、コンプリートすると、特大サイズの台紙が貰えますが、そういう所にも一切手を抜かないクオリティがいかにも小田急らしくて好感が持てます。
少々話しが脱線してスミマセン…。
ワタシダ
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バブル崩壊以降頓挫しましたが90年代初頭までは新宿からの最終準急が24時51分発(相模大野25時38分着)と大分終電も遅かったので当時はあながち突拍子ないというわけでもなかったのでしょう。
ワタシダ
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しかし分割併合は無くなり、特急ロマンスカーも相模大野停車が増えた。この改良は果たして正解だったか。
ワタシダ
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ワタシダ
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その他現在は北口側から小田原線と江ノ島線高架橋の間にある施設に入るためにのみある踏切はかつては線路の反対側へ行けるいわゆる開かずの踏切が存在し、有志が作成した踏切時刻表なるものが存在したそうです。現在歩道橋がある下がそうで、反対側にある道路に抜けていました。
周辺ではあとは近くを走る16号線も陸橋は未完成。また現在は暗渠になっている川が
地上にあったようです。この辺りは航空写真が残っていたり、相模原市の博物館にはこの辺りを再現した模型があるので当時の様子が分かります。
ここまで語っていますが私は2000年生まれなのでギリギリこの時代を知りません。
ワタシダ
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小田原方端にあった橋上駅舎も駅ビル設置とともにホーム中ほどに移設され分割編成後4両に乗るため小走りすることもなくなりました。これは結局分割されなくなりましたが。
ワタシダ
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私が幼かった昭和39年か40年頃のことですが、小田原方面から相模大野に到着した電車は3番線で客扱いした後に出発し、国道16号線の下辺りまで進んでから逆走して4番線に進入し、江の島線からの電車と連結して再出発した記憶があります。
それが日常的なことだったのか、ダイヤの乱れによるものだったのかは分かりません。
私が高校生だった昭和48年頃の朝の光景ですが、江の島方面から来た上りの相模大野止まりの電車は、小田原線との立体交差の上り坂が始まる前に渡り線で下りの江の島線に進入し、逆走して1番線に到着して折り返しの江の島方面行きの電車となっていました。
新宿方面へ急ぐ通勤客は、我先に跨線橋に向けて猛ダッシュしていました。その渡り線は、今はもう存在していません。
ワタシダ
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ワタシダ
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バックして小田原方面からの列車と連結してましたね。その後、小田原線から4番線に入れるように
なったので解消されました。
ワタシダ
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工事中の写真や線路切り替えのデータを持っていらっしゃるなら見てみたいです
ワタシダ
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ワタシダ
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そして今や通過線と待避設備を構える立派な駅に成長し、新百合ヶ丘とともに小田急における本線と支線との分岐駅としての要衝を今もなお堅持しとります。
ワタシダ
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降りたと言っても、江ノ島線に乗り換えるだけですが…
それと、下りホームの外側に留置線が3~4本あったような記憶がありますが、間違ってるかな??
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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