小田急という路線を知ろうとすると、サバー区間とインター区間という概念がよく登場します。
これは列車の運行頻度を変える境界を示す概念で、都心側をサバー区間、郊外やその先はインター区間と呼ばれています。
今回の記事では、この概念について少し掘り下げてみたいと思います。
それぞれの区間は列車の運行間隔が異なっており、サバー区間は列車の本数が多く、インター区間は少なくなっています。
この概念は開業時から存在しており、二つの列車種別が設定されていました。
その列車種別の名称は、各駅停車と直通というものですが、各駅停車は新宿から向ヶ丘遊園の区間でのみ運行され、その先には直通しか運行されていなかったのです。
つまり、開業当時から遠近分離が行われていたということになりますが、路線が長い小田急だからこそといえます。
開業当時の直通の停車駅は、経堂、向ヶ丘遊園の2駅で、その先は各駅に停車をしていきます。
江ノ島線が開業すると停車駅が増加しますが、小田原に向かう列車と片瀬江ノ島に向かう列車では、停車駅が異なっていました。
直通は太平洋戦争が終わる直前の1945年6月に廃止されますが、1946年10月にほぼ同様の停車駅とされた準急が登場し、実質的な後継種別となっています。
サバー区間とインター区間は、列車の運行頻度を変える概念であると同時に、運行する列車種別を分ける意味合いもあったことになります。
直通が廃止された後に設定された準急は、その後もこの概念を継承することとなります。
なぜこのような概念が生まれたのかというと、昔の小田急は多摩川を渡るか渡らないかで、人口密度が大きく異なっていたからです。
神奈川県に入ると一気に田舎となる、それが昔の小田急沿線でした。
時期によって異なるものの、特急を除いた小田急の列車種別の基本は、各駅停車、準急、急行の三つでした。
今でこそ小田急は全線の多くが宅地化されていますが、戦後も多摩川を渡ると自然豊かな土地が目立っていました。
列車の運行本数はサバー区間に寄せられており、各駅停車が主体となっていたのです。
向ヶ丘遊園で折り返す各駅停車は多く、向ヶ丘遊園より先で各駅停車が足りなくなる分には、準急を組み合わせていました。
急行は相模大野で分割併合を行うことで、都心部での収容力を確保しつつ、インター区間での運行本数も確保できるようになっており、3種別で上手にダイヤが組まれていたといえます。
準急はサバー区間とインター区間の調整役を担っており、地味ながら大切な列車種別だったといえるでしょう。
現在は列車種別が増加し、郊外の宅地化も随分と進みました。
そもそも明確な定義があるわけではないので、それがいつの時点で変更されたというのもないといえます。
それでは、現在の境界がどこなのかといえば、新百合ヶ丘や相模大野というのが自然でしょう。
しかし、実際にはこれらの駅を境として、サバー区間やインター区間と分けるのは少々無理があるようにも思います。
現在の小田急沿線は、二つの区間で分けられるほど単純ではないからです。
実際のところは、向ヶ丘遊園、新百合ヶ丘、相模大野と段階的に運行頻度が下がり、どこかを明確な境とすることが難しくなっています。
あえてインター区間を定義するとすれば、1時間に6本程度しか運行されない時間帯がある、本厚木以西や藤沢から先が当てはまるのかもしれません。
これも納得感があるものではないため、現在の小田急でサバー区間とインター区間を明確に定義することは、難しいといえそうです。
そういえばしっかりと書いたことがないと気付かされ、今回の記事化へと繋がりました。
ねこ常務さんも面白い記事を沢山書かれているので、よろしければ社畜ゲートウェイもご覧下さい。
意外と長い記事になり、良いネタを提供していただけたと思っています。
ネタの提供、ありがとうございました。
これは列車の運行頻度を変える境界を示す概念で、都心側をサバー区間、郊外やその先はインター区間と呼ばれています。
今回の記事では、この概念について少し掘り下げてみたいと思います。
サバー区間とインター区間
小田急は向ヶ丘遊園駅を境として、都心側をサバー区間、逆側をインター区間と呼んでいました。それぞれの区間は列車の運行間隔が異なっており、サバー区間は列車の本数が多く、インター区間は少なくなっています。
この概念は開業時から存在しており、二つの列車種別が設定されていました。
その列車種別の名称は、各駅停車と直通というものですが、各駅停車は新宿から向ヶ丘遊園の区間でのみ運行され、その先には直通しか運行されていなかったのです。
つまり、開業当時から遠近分離が行われていたということになりますが、路線が長い小田急だからこそといえます。
開業当時の直通の停車駅は、経堂、向ヶ丘遊園の2駅で、その先は各駅に停車をしていきます。
江ノ島線が開業すると停車駅が増加しますが、小田原に向かう列車と片瀬江ノ島に向かう列車では、停車駅が異なっていました。
直通は太平洋戦争が終わる直前の1945年6月に廃止されますが、1946年10月にほぼ同様の停車駅とされた準急が登場し、実質的な後継種別となっています。
サバー区間とインター区間は、列車の運行頻度を変える概念であると同時に、運行する列車種別を分ける意味合いもあったことになります。
直通が廃止された後に設定された準急は、その後もこの概念を継承することとなります。
なぜこのような概念が生まれたのかというと、昔の小田急は多摩川を渡るか渡らないかで、人口密度が大きく異なっていたからです。
神奈川県に入ると一気に田舎となる、それが昔の小田急沿線でした。
長く続いた準急の大切な役割
東京メトロ千代田線に乗り入れる列車でのみ、現在は運行されるようになった準急ですが、戦後もサバー区間とインター区間の運行にとって、大切な役割を担っていました。時期によって異なるものの、特急を除いた小田急の列車種別の基本は、各駅停車、準急、急行の三つでした。
今でこそ小田急は全線の多くが宅地化されていますが、戦後も多摩川を渡ると自然豊かな土地が目立っていました。
列車の運行本数はサバー区間に寄せられており、各駅停車が主体となっていたのです。
向ヶ丘遊園で折り返す各駅停車は多く、向ヶ丘遊園より先で各駅停車が足りなくなる分には、準急を組み合わせていました。
急行は相模大野で分割併合を行うことで、都心部での収容力を確保しつつ、インター区間での運行本数も確保できるようになっており、3種別で上手にダイヤが組まれていたといえます。
準急はサバー区間とインター区間の調整役を担っており、地味ながら大切な列車種別だったといえるでしょう。
変化するサバー区間とインター区間
さて、サバー区間とインター区間が不変的なものなのかというと、それは違うと考えられます。現在は列車種別が増加し、郊外の宅地化も随分と進みました。
そもそも明確な定義があるわけではないので、それがいつの時点で変更されたというのもないといえます。
それでは、現在の境界がどこなのかといえば、新百合ヶ丘や相模大野というのが自然でしょう。
しかし、実際にはこれらの駅を境として、サバー区間やインター区間と分けるのは少々無理があるようにも思います。
現在の小田急沿線は、二つの区間で分けられるほど単純ではないからです。
実際のところは、向ヶ丘遊園、新百合ヶ丘、相模大野と段階的に運行頻度が下がり、どこかを明確な境とすることが難しくなっています。
あえてインター区間を定義するとすれば、1時間に6本程度しか運行されない時間帯がある、本厚木以西や藤沢から先が当てはまるのかもしれません。
これも納得感があるものではないため、現在の小田急でサバー区間とインター区間を明確に定義することは、難しいといえそうです。
おわりに
今回の記事を書いたきっかけは、現在は無職ゲートウェイになっている社畜ゲートウェイのねこ常務さんからのネタ提供でした。そういえばしっかりと書いたことがないと気付かされ、今回の記事化へと繋がりました。
ねこ常務さんも面白い記事を沢山書かれているので、よろしければ社畜ゲートウェイもご覧下さい。
意外と長い記事になり、良いネタを提供していただけたと思っています。
ネタの提供、ありがとうございました。
コメント
コメント一覧 (25)
サバーとインターの由来は何なんでしょう
パッと見だと、サバーがサブアーバンで郊外、インターが都心みたいな印象がありますが、逆みたいなのでどういう意味なのかなあと。
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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埼玉方面へ延びてる東武伊勢崎線や東武東上線は分からないですが、例えば新宿~町田間の距離が東武東上線だと大体池袋~川越くらい、東武伊勢崎線だと大体浅草~春日部くらいですかね?
ミリ単位だと勿論違いますし、まあ数キロほど違うかもしれないですけども。
小田急は町田以西、たとえば海老名とか本厚木くらいまで郊外が続いています。
こういう路線て関東圏だと他に例がなく、特異だと思うんですよね。
関西では郊外区間が長く続く路線があるのかもしれませんが、関西と関東とでは列車の混雑率がそもそも違いますので、色々と比較することに意味はないと思います。
ワタシダ
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わけのわからない電車が存在するのか。
宅地化が進んでんだから新松田まではバンバン走らせるべきなんだよ。
ワタシダ
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少年時代祖師ヶ谷に住んでいた高田文夫センセーは、ラジオ番組で「戦前に『シネマ観ましょかお茶飲みましょか いっそ小田急で逃げましょか♪』という歌が流行ったんだ。小田急は逃げる時に乗るものだったんだw」とギャグにしていましたw
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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向ヶ丘遊園以東では駅間だいたい1kmあるかないかですが、以西では向ヶ丘遊園~生田、鶴川~玉川学園前~町田、座間~海老名(新百合ヶ丘開設前なら百合ヶ丘~柿生)など駅間距離が長くなり集落ごとに駅があるような列車のような雰囲気になります。
ワタシダ
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開業当時は多摩川を渡って神奈川県に入ると閑散としていたようですね。
現代のサバーとインターの境界は有って無いようなものかも知れませんがやはり相模大野であったり本厚木であったりと輸送需要が大きく段落ちする辺りになると考えられます。
昔の多摩川が今の相模川と言ったところでしょうか?
ワタシダ
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小田急今昔物語 生方良雄著
の本にも記載してありました。小田急OBの方の著書ですので、色々なお話がありとても面白いので気になる方は是非ご購読を!
ワタシダ
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今回投稿者さんが参考にされたねこ常務さんが投稿された記事も是非拝見し、参考にしてみたいですね。
ワタシダ
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あと写真の8051Fが後ろに8000形を連結しています。珍しい!この前に8260Fと連結していましたが優先席ステッカーが旧型なのでその時の写真ではなさそうですね。
ワタシダ
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両方とも行先が相模大野だったのでインター区間の急行通過駅が逆に大増発という面白い状況になっていました。
元々大雪の時などの非定常ダイヤとして使われていたみたいですね。
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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