最終的に全ての編成が2両となり、晩年は同一形式として扱われた小田急の2200系列。
2200系列とは、2200形、2220形、2300形、2320形の4形式をまとめたものであり、運用上もセットになっていました。
晩年は複数の編成を繋いだ6両を基本として使われますが、1982年から廃車が開始され、1984年までに全46両が引退しています。
仲良く使われていた2200系列は、どのような順序で廃車されたのでしょうか。
2200形はほとんどが6両の中間に入ってしまっていたため、先頭に立つ姿はそう多く見られない状況でした。
このような状況となっていたため、普段組んでいた編成の単位で廃車となりそうですが、そうではありません。
廃車のタイミングに合わせて、組み合わせる編成を変えながら、2200系列の淘汰は進められました。
2200系列が廃車となった順序は以下のとおりで、日付は各編成の廃車日です。
2211F(2200形):1982年8月31日
2301F(2300形):1982年8月31日
2303F(2300形):1982年8月31日
2201F(2200形):1983年6月30日
2203F(2200形):1983年6月30日
2205F(2200形):1983年6月30日
2207F(2200形):1983年7月31日
2209F(2200形):1983年7月31日
2213F(2200形):1983年7月31日
2215F(2200形):1983年8月31日
2325F(2320形):1983年8月31日
2327F(2320形):1983年8月31日
2233F(2220形):1984年5月9日
2235F(2220形):1984年5月9日
2321F(2320形):1984年5月9日
2217F(2200形):1984年6月30日
2221F(2220形):1984年6月30日
2223F(2220形):1984年6月30日
2225F(2220形):1984年6月30日
2227F(2220形):1984年6月30日
2229F(2220形):1984年6月30日
2231F(2220形):1984年6月30日
2323F(2320形):1984年6月30日
今回は廃車日が同じ編成が分かりやすいようにしてみました。
色々と興味深い点が見えてきますね。
まず気付くことは、同じ日に3編成ずつを廃車しているということです。
これは2両を3編成繋いで6両編成として使っていたためであり、2200系列の運用を一つ削減すると、3編成の余剰が生まれることに起因します。
1982年に1運用、1983年に3運用、1984年に3運用が削減されたことが分かります。
ちなみに、2200系列は6両を組むと2編成が余るため、これは2400形と共通の4両での運用がありました。
続いては編成ごとの順序ですが、1982年に2200形と2300形が廃車となりました。
一気に2編成が廃車となった2300形は、この時点で形式消滅となっており、最初に2200系列で消滅した形式となっています。
3編成の廃車後、少ししてから2200系列では大規模な編成替えが行われました。
2217F以外の2200形は、4両を組んで多摩線に集められますが、これによって6両を組むための編成が足りなくなることから、2200系列と2400形で組んだ6両が一時的に復活しています。
多摩線に集められた2200形は、その後集中的に廃車が進められており、1983年の夏にかけて順次廃車となりました。
1983年8月31日には、2200形に続いて2320形にも廃車が発生し、2200系列は6両が3運用にまで削減され、余った4両は2400形と共通の運用で使われました。
そして、面白いことに4両と6両が併結をする列車が存在し、2200系列だけで揃った10両が見られ、編成中の全てが先頭車というブツ10が頻繁に実現していました。
1984年度に入ると2200系列の廃車が再開され、先行して3編成が廃車となった後には、残った8編成が一気に廃車となりました。
最後まで残ったのは2220形がほとんどでしたが、2200形の2217Fと2320形の2323Fも残っており、結果的に3形式が揃って形式消滅したことになります。
こうして約2年で2200系列は小田急線上から姿を消し、2両の編成は過去のものとなりました。
それまではある程度決まったパターンで組まれていましたから、最後の2年間は貴重な期間だったといえそうですね。
2200系列とは、2200形、2220形、2300形、2320形の4形式をまとめたものであり、運用上もセットになっていました。
晩年は複数の編成を繋いだ6両を基本として使われますが、1982年から廃車が開始され、1984年までに全46両が引退しています。
仲良く使われていた2200系列は、どのような順序で廃車されたのでしょうか。
編成の組み合わせを変えながら進められた廃車
晩年の2200系列は、規則性のある組み合わせで、半固定編成的な使われ方をしました。2200形はほとんどが6両の中間に入ってしまっていたため、先頭に立つ姿はそう多く見られない状況でした。
このような状況となっていたため、普段組んでいた編成の単位で廃車となりそうですが、そうではありません。
廃車のタイミングに合わせて、組み合わせる編成を変えながら、2200系列の淘汰は進められました。
2200系列が廃車となった順序は以下のとおりで、日付は各編成の廃車日です。
2211F(2200形):1982年8月31日
2301F(2300形):1982年8月31日
2303F(2300形):1982年8月31日
2201F(2200形):1983年6月30日
2203F(2200形):1983年6月30日
2205F(2200形):1983年6月30日
2207F(2200形):1983年7月31日
2209F(2200形):1983年7月31日
2213F(2200形):1983年7月31日
2215F(2200形):1983年8月31日
2325F(2320形):1983年8月31日
2327F(2320形):1983年8月31日
2233F(2220形):1984年5月9日
2235F(2220形):1984年5月9日
2321F(2320形):1984年5月9日
2217F(2200形):1984年6月30日
2221F(2220形):1984年6月30日
2223F(2220形):1984年6月30日
2225F(2220形):1984年6月30日
2227F(2220形):1984年6月30日
2229F(2220形):1984年6月30日
2231F(2220形):1984年6月30日
2323F(2320形):1984年6月30日
今回は廃車日が同じ編成が分かりやすいようにしてみました。
色々と興味深い点が見えてきますね。
2200系列の廃車で特徴的なこと
2両編成ばかりが在籍していた2200系列は、廃車の仕方にも特徴的な点がありました。まず気付くことは、同じ日に3編成ずつを廃車しているということです。
これは2両を3編成繋いで6両編成として使っていたためであり、2200系列の運用を一つ削減すると、3編成の余剰が生まれることに起因します。
1982年に1運用、1983年に3運用、1984年に3運用が削減されたことが分かります。
ちなみに、2200系列は6両を組むと2編成が余るため、これは2400形と共通の4両での運用がありました。
続いては編成ごとの順序ですが、1982年に2200形と2300形が廃車となりました。
一気に2編成が廃車となった2300形は、この時点で形式消滅となっており、最初に2200系列で消滅した形式となっています。
3編成の廃車後、少ししてから2200系列では大規模な編成替えが行われました。
2217F以外の2200形は、4両を組んで多摩線に集められますが、これによって6両を組むための編成が足りなくなることから、2200系列と2400形で組んだ6両が一時的に復活しています。
多摩線に集められた2200形は、その後集中的に廃車が進められており、1983年の夏にかけて順次廃車となりました。
1983年8月31日には、2200形に続いて2320形にも廃車が発生し、2200系列は6両が3運用にまで削減され、余った4両は2400形と共通の運用で使われました。
そして、面白いことに4両と6両が併結をする列車が存在し、2200系列だけで揃った10両が見られ、編成中の全てが先頭車というブツ10が頻繁に実現していました。
1984年度に入ると2200系列の廃車が再開され、先行して3編成が廃車となった後には、残った8編成が一気に廃車となりました。
最後まで残ったのは2220形がほとんどでしたが、2200形の2217Fと2320形の2323Fも残っており、結果的に3形式が揃って形式消滅したことになります。
こうして約2年で2200系列は小田急線上から姿を消し、2両の編成は過去のものとなりました。
おわりに
廃車が進められた約2年で、2200形は編成替えを繰り返すこととなりました。それまではある程度決まったパターンで組まれていましたから、最後の2年間は貴重な期間だったといえそうですね。
コメント
コメント一覧 (13)
ワタシダ
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その後多摩線も4連化されますが、基本2400系運行の中で、2211F+2213Fだけは多摩線に残り、組んで4連運行されました。
本線では「ブツ6」の中間に組まされた「二枚窓」ですが、多摩線では「平べったい湘南顔」の勇姿が見られました。
2211Fの廃止が早かったのは…
先頭で頑張りすぎちゃったからでしょうか(?)
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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また下りの場合、大野での分割のため車掌は自車、全車 のボタン
を使い分けて行先案内放送をするのですが、ブツだと編成に4箇所も分割可能位置があるので、どこが大野での分割位置なのかを判別するために、それを認識させるスイッチが各車両に付いていました。
ワタシダ
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こうして廃車時期を時系列でならべると少数な2300が真っ先に、そして2枚窓の2200が優先的に廃車になっていったのですね。
2枚窓はほとんど6両半固定の中間ユニット状態、貫通型の2220や2320の貫通扉から飛び出たような行先表示幕がものすごく印象に残っています。
その方向幕灯も確か蛍光灯では無く電球で点灯するとオレンジ色っぽい、電球色だった記憶があります。記憶違いでしたらすみません。
ワタシダ
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ワタシダ
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よく知っている2200型は、相模大野の車庫の片隅に貨車と一緒に止められている姿です。電車に乗るたび必ず目で追っていました。
実際に走っている姿を見たかったし、乗ってみたかったなぁ。
それにしても、ブツ10はすごいですね!!
圧巻だったのでしょう。。
ワタシダ
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ワタシダ
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あの頃の急行は色々な車両が来て楽しかったな~
同じ子供の頃に小田急顔の貫通扉脇の手すりを見て、バルコニー付きと言っていたのを思い出します。
今新5000形のネオンサイン?をスマイルとか投稿されているSNSを見ます。
何か味気無い通勤形電車色々あだ名がついて、電車に興味をもってくれる人が増えてくれるといいですね!
ワタシダ
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同じような理由で、東武30000系は地下鉄直通から撤退していますが、あの時は直通先の東急田園都市線において先頭車が入る6、7号車の運転台部分が最も混雑する場所であり、それを解消するために東上線に転属させたそうです。
ワタシダ
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