快速急行と急行が1時間に6本ずつ、これに特急や準急も加わり、小田急の都心部ではひっきりなしに電車が走ってくるようになりました。
複々線化によって多くの列車が走れるようになり、数十年前の小田急とは全く別の路線のような雰囲気となっています。

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まだ複々線が代々木上原から東北沢までの一駅にしかなかった頃、小田急の急行はどのように走っていたのでしょうか。
複々線化の工事が本格的に始まった、平成初期の状況を振り返ってみたいと思います。

1時間に4本程度しか急行が走っていなかった時代

現在と同様、時間帯によって本数は異なりますが、平成初期の日中は急行が1時間に4本程度しか走っていませんでした。
急行だけで6本、それに快速急行の6本が加わる現在と比較した場合、相当優等列車の本数が違っていたことになります。

一方で、各駅停車の本数は現在よりもかなり多く、1時間に10本程度が運転されていました。
都心部から離れれば、まだまだ田園風景が広がっている地域が多く、各駅停車を中心とした都心部の輸送力を重視したダイヤが組まれていたのです。

1時間に4本程度が走っていた急行については、現在と同様に基本のパターンが存在しました。
下り列車については、新宿発の毎時1分と31分発が箱根湯本行きと片瀬江ノ島行きの併結列車となっており、相模大野で分割してそれぞれの方向に走っていきます。
必然的に江ノ島線内の急行は4両となりますが、各駅停車には6両も走っていたりと、需要に対して供給が合っていないような状況でもありました。

新宿発の毎時11分と41分発は小田原行きで、箱根登山線に乗り入れができない2600形や4000形の6両が先頭に立つ列車といえば、この小田原行きが基本となります。
この列車も相模大野で分割しますが、後ろの4両は各駅停車の藤沢行きや片瀬江ノ島行きとなっていました。

上り列車については相模大野で併合を行い、最終的には10両で新宿に戻ってきます。
当時の相模大野では頻繁に分割併合が行われており、切り離したり繋いだりと忙しく、小田急の急行といえば分割併合という時代でした。

急行の間を補完するように走っていた列車

次々に電車が走ってくる現在からは想像ができないぐらい、昔は急行の本数が少なかった小田急ですが、20分も急行が来ないタイミングがあったため、それを補完する列車が設定されていました。
それが準急と土曜急行という存在です。

準急は主に新宿から本厚木を結ぶ列車と、営団地下鉄(現在の東京メトロ)千代田線との直通運転を行う列車がありました。
小田急線内のみを走る準急は6両で、各駅停車での運用が中心だった2600形が、日常的に準急で走る姿が見られました。

そして、1時間に6本の急行を走らせるために存在したのが、土曜日のみ運転される土曜急行です。
当時は土曜日が平日ダイヤでしたが、半ドンで午後だけが休みの企業が多く、土曜日だけ急行が増発されていました。

土曜急行は13時前後に運転が始まり、新宿と相模大野を結んでいました。
15時過ぎまで設定されており、普段は急行が走らない20分の間を埋めていましたが、10両ではない短い編成が充当されているといった特徴がありました。
登場したばかりの1000形が、8両で土曜急行に充当されていたのは意外と知られていないかもしれませんね。

おわりに

郊外の沿線が発展したことで、優等列車を中心としたダイヤへと移行した小田急。
数十年前の急行の本数を振り返ってみると、全く別の路線になっている気もしてきますね。