新宿から小田原までを結ぶ小田原線に、二つの支線を持つ小田急線。
1948年に設立された会社ですが、その歴史は1923年に設立された小田原急行鉄道からスタートしています。
小田急がどのような歴史を経て現在の会社となったのか、今までの経緯を簡単に振り返ってみたいと思います。
それはある程度正しく、1923年5月1日に設立された小田原急行鉄道から、小田急の歴史は始まっています。
さらに遡れば、1910年10月1日に設立された鬼怒川水力電気が、親会社として小田急のルーツとなっています。
鬼怒川水力電気は、小田急の初代社長である利光鶴松氏が設立した会社で、その名が示すとおり電力会社であり、東京の市電に送電することを目的としていました。
利光鶴松氏は郊外の鉄道会社を次々に企画し、その中の一つが小田原急行鉄道であり、他に現在の京王井の頭線である帝都電鉄があります。
小田原急行が小田急となったのは、電力を国家で管理するため、鬼怒川水力電気の電力部門が日本発送電に統合されたことがきっかけです。
基幹事業を失った親会社の鬼怒川水力電気は、1941年3月1日に小田原急行鉄道を合併し、その社名を小田急電鉄としました。
小田急が正式に社名となったのはこの合併のタイミングですが、実際には通称として古くから使われていたようで、1929年に公開された映画の主題歌である東京行進曲において、「いっそ小田急で 逃げましょか」という歌詞が使われています。
こうして小田原急行から小田急となったものの、その状態は長続きしませんでした。
既に高齢となっていた利光鶴松氏は、小田急の再建を現在の東急電鉄の前身である、東京横浜電鉄の五島慶太氏に託して引退、1941年9月20日に五島慶太氏が社長に就任しました。
五島慶太氏は、同年に現在の京浜急行電鉄の前身である京浜電気鉄道の社長にも就任し、陸上交通事業調整法の関係もあって3社が合併、1942年5月1日に東京急行電鉄となります。
この時点で、現在の小田急、東急、京浜急行が一つの会社となり、大東急と呼ばれる時代がスタートしました。
1944年5月31日には、現在の京王電鉄である京王電気軌道が合併し、現在の大手私鉄4社が一つの会社という状態となります。
こうして戦中と戦後にかけて東急の一員となった小田急でしたが、様々な面で異なる各社が合併した状態は課題も多く、最終的に元の4社へと分離独立をすることとなりました。
1948年6月1日に現在の小田急電鉄が誕生し、東急、京浜急行、京王とは別の会社となっています。
短い期間とはいえ、大手私鉄の4社が一つの会社だった時代があったことは、今の状態からでは想像もできませんね。
1948年に設立された会社ですが、その歴史は1923年に設立された小田原急行鉄道からスタートしています。
小田急がどのような歴史を経て現在の会社となったのか、今までの経緯を簡単に振り返ってみたいと思います。
小田原急行鉄道から小田急電鉄へ
小田急の社名の由来を考えてみると、真っ先に浮かぶのは小田原と急行ではないでしょうか。それはある程度正しく、1923年5月1日に設立された小田原急行鉄道から、小田急の歴史は始まっています。
さらに遡れば、1910年10月1日に設立された鬼怒川水力電気が、親会社として小田急のルーツとなっています。
鬼怒川水力電気は、小田急の初代社長である利光鶴松氏が設立した会社で、その名が示すとおり電力会社であり、東京の市電に送電することを目的としていました。
利光鶴松氏は郊外の鉄道会社を次々に企画し、その中の一つが小田原急行鉄道であり、他に現在の京王井の頭線である帝都電鉄があります。
小田原急行が小田急となったのは、電力を国家で管理するため、鬼怒川水力電気の電力部門が日本発送電に統合されたことがきっかけです。
基幹事業を失った親会社の鬼怒川水力電気は、1941年3月1日に小田原急行鉄道を合併し、その社名を小田急電鉄としました。
小田急が正式に社名となったのはこの合併のタイミングですが、実際には通称として古くから使われていたようで、1929年に公開された映画の主題歌である東京行進曲において、「いっそ小田急で 逃げましょか」という歌詞が使われています。
こうして小田原急行から小田急となったものの、その状態は長続きしませんでした。
東京急行電鉄への合併と戦後の分離独立
小田急電鉄となったものの、その頃の経営状態は良くありませんでした。既に高齢となっていた利光鶴松氏は、小田急の再建を現在の東急電鉄の前身である、東京横浜電鉄の五島慶太氏に託して引退、1941年9月20日に五島慶太氏が社長に就任しました。
五島慶太氏は、同年に現在の京浜急行電鉄の前身である京浜電気鉄道の社長にも就任し、陸上交通事業調整法の関係もあって3社が合併、1942年5月1日に東京急行電鉄となります。
この時点で、現在の小田急、東急、京浜急行が一つの会社となり、大東急と呼ばれる時代がスタートしました。
1944年5月31日には、現在の京王電鉄である京王電気軌道が合併し、現在の大手私鉄4社が一つの会社という状態となります。
こうして戦中と戦後にかけて東急の一員となった小田急でしたが、様々な面で異なる各社が合併した状態は課題も多く、最終的に元の4社へと分離独立をすることとなりました。
1948年6月1日に現在の小田急電鉄が誕生し、東急、京浜急行、京王とは別の会社となっています。
おわりに
合併や分離独立を繰り返して成立した、現在の小田急電鉄。短い期間とはいえ、大手私鉄の4社が一つの会社だった時代があったことは、今の状態からでは想像もできませんね。
コメント
コメント一覧 (14)
後者が前者から同線を強奪した様に見えますが実際は、
そうではなく京王の経営の安定化が真の目的だそうです。
つまりそれまで路面電車に毛の生えた規格であった同社を、
高速化する際の叩き台がなければ経営の安定化なんて、
夢のまた夢となり大東急から独立してもそれが危ぶまれる、
という懸念を払拭する思惑が京王にあったという訳です。
その時の因縁と言わんばかりに小田急と京王が、
多摩ニュータウンから新宿の間の乗客の輸送で、
仁義なき戦いを繰り広げているなんて傑作です。
ワタシダ
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小田急を除く、東急・京急・京王・相鉄で、「東京西南私鉄連合健康保険組合」を構成しています。
ワタシダ
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この場合、京急のみ、1,435mm軌間として、史実と同じ分け方になり、他の3社は史実と違う分け方になったでしょう。
1,372mm軌間の路線として、玉電(現在の田園都市線渋谷〜二子玉川間に相当する玉川線・現在の世田谷線・廃止済みの砧線の総称)が京王に編入されていたら、二子玉川駅は2社の乗換駅となり、明大前駅よりも下高井戸駅のほうが主要駅になっていたでしょう。また、田園都市線は大井町〜中央林間間の路線となっていたでしょう。さらに、玉川線廃止後、渋谷〜二子玉川間の地下線を新玉川線として建設した際も、1,372mm軌間で建設したでしょう。
そして、井の頭線が小田急所属のままだとしたら、下北沢駅付近の線路を引き直して、小田原線と井の頭線の上り同士、下り同士の対面乗換ができるように(東急目黒線・大井町線大岡山駅のような形に)することを検討したのではないか、などと考えてしまいます。
ワタシダ
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このように小田急の歴史を紐解くのも興味深く、なかなか面白い内容やと思います。これからもこうした小田急の歴史を振り返り、紐解くような投稿がとても楽しみですね。
ワタシダ
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