小田原線の新百合ヶ丘から分岐し、唐木田までを結んでいる多摩線。
小田急では最も短い路線ですが、多摩ニュータウンに入ると沿線の景色が変わり、小田原線や江ノ島線とは違った魅力があります。

多摩線は1974年6月1日に小田急永山まで開業しましたが、一部の車両の行先幕には黒川のコマが用意されていました。
使うはずがないコマは、なぜ用意されていたのでしょうか。

事前に用意されていた多摩線に関係する行先幕のコマ

多摩線の開業を控え、一部の車両の行先幕には、関連するコマが事前に用意されました。
有名なものとしては、「永山」と「多摩中央」があります。



多摩中央は、開業前に予定されていた小田急多摩センターの駅名でした。
同様に小田急永山は乞田で予定されていましたが、行先幕では永山となっていることから、先に変更が決まっていたということなのでしょう。

そして、あまり知られていないもう一つのコマとして、「黒川」がありました。
このコマは9000形で用意されていたものですが、もちろん実際に使われたことはありません。
位置は箱根湯本と多摩中央の間で、後に多摩線内の折り返し用のコマとなる位置でした。

なぜ黒川行きのコマがあったのか

使われることがなかった黒川のコマは、なぜ用意されていたのでしょうか。
これは黒川までの部分開業が当初予定されていたためで、後に計画が変更となった名残です。

1969年の時点で公表されていた計画を見ると、1972年頃に黒川までの開業を目指すとされており、その先は東京都の計画に従ってと表現されています。
黒川は下りホームのみに線路があり、新百合ヶ丘方にポイントが設けられる予定となっていました。

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多摩線の建設工事は1970年6月4日から始まり、この時点でも黒川までの部分開業が予定されていました。
9000形の登場は1972年早々のことであり、初期車が製造される段階でも黒川までの部分開業を予定していたということなのでしょう。

開業は1972年頃の予定で進んでいましたが、実際にはこの段階で開業することはなく、1974年に小田急永山までの部分開業をすることとなります。
9000形には永山のコマも用意されていましたから、増備が行われているタイミングで部分開業の区間が変更になったということなのでしょうね。

おわりに

1972年の終わりに登場した9000形の2次車にも黒川のコマはあったようですから、この時点でも黒川までの部分開業が予定されていたのだと考えられます。
黒川で折り返す多摩線が、実際にあったらどのような光景だったのでしょうね。