田畑が広がる小田急の愛甲石田から伊勢原までは、風景と少々不釣り合いな高架区間となっています。
高架区間はそれほど長くはないものの、のどかな車窓が一変する面白い場所です。

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田園風景が広がるこの区間は、なぜ高架化されることになったのでしょうか。

愛甲石田から伊勢原までの高架区間

下り列車に乗り、愛甲石田を出発して住宅街の中を抜けると、しばらくして高架区間へと入ります。
周囲には田園風景が広がりますが、電車は高架線を走り抜け、少しして地上へと降りていきます。
開業時は当然地上を走っていたこの区間ですが、1999年から2000年にかけて高架線への切り替えが行われ、現在のような状態となりました。

小田急がまだ地上を走っていた頃、この区間内には歌川橋梁という小さな鉄橋がありました。
鉄橋が架かる歌川は、大雨の際に氾濫することがあり、度々列車の運行に支障をきたしていました。
そこで、歌川橋梁の架け替えとして周辺一帯を高架化、同時期に建設が進められていた横浜伊勢原線のバイパスとの立体交差も実現することで、この問題を解消することとしたのです。

高架となったこの区間は、愛甲石田側から歌川、横浜伊勢原線を順番に超えると、今度は新東名高速道路の下を抜けるために線路は地上へと降ります。
小田急がアップダウンを行うことで、上手く道路と鉄道の立体交差を実現しています。

このような経緯で高架化が行われた歌川付近ですが、河川の氾濫以外にも開業時からの難題を抱えており、小田急を長年悩ませ続けていました。

軟弱地盤だった歌川付近

2000年に完成した高架区間ですが、付近一帯は地盤が軟弱で、小田急が開業時から苦労をしてきた場所でもありました。
改良が進められたことで、開業時よりはましな状態となっていましたが、高架化はこの問題においても意味があるものでした。

この付近は、丹沢に降った雨がしみ出てくる場所であり、元々は沼地のような状態でした。
そのような場所に開業時はたいした対策もせずに線路を敷設したため、路盤の状態はなかなか安定せず、速度制限がかけられるような区間となってしまいました。
軟弱地盤は道路との立体交差においても障害となり、下へと掘るわけにもいかないため、小田急の高架化へと繋がったようです。

小田急は開業時から鋼製の架線柱を採用していましたが、この区間は地盤の関係で木柱が使われており、後にコンクリート製へと交換されますが、そのような点からも苦労の跡を見ることができました。

おわりに

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