小田原線から江ノ島線が分岐し、一日を通して沢山の列車が行き交う小田急の相模大野駅。
江ノ島線の各駅停車は相模大野で折り返す列車が多く、江ノ島線にとってなくてはならない存在の駅となっています。
そんな相模大野が設置されたのは1938年のことですが、江ノ島線が開業したのは1929年であり、9年の空白期間がありました。
営業上は相模大野から江ノ島線が分岐していますが、施設上の分岐点は駅から200m進んだ位置にある相模大野分岐点となっており、厳密には江ノ島線が分岐するのは相模大野ではないことになります。
相模大野は新宿方に引き上げ線が設けられており、江ノ島線内の各駅停車は多くがここで折り返しを行います。
多くの列車が行き交う中で、合間を縫って折り返しが行われており、ホームの端で眺めると楽しい光景です。
小田原線と江ノ島線の分岐は小田原方にありますが、上り線は小田原線の上を通る立体交差となっており、お互いの列車を支障しないようになっています。
これは1929年の開業時からのことで、当時としては過剰な投資ではあったものの、後の発展を支える先行投資となりました。
開業当時は、現在の駅から200m進んだ位置に大野信号所が設けられ、小田原線から江ノ島線が分岐することとなりました。
つまり、これが現在の相模大野分岐点であり、当時の名残ともいえます。
古くから栄えていた町田とは異なり、江ノ島線が開業した当時の相模大野付近は何もないような場所で、駅を設けずに信号所で済まされたのです。
相模大野がなかったということは、江ノ島線に乗り換える駅は町田であったことを意味しており、現在も江ノ島線との結び付きが強いのは、そのような経緯も少なからず関係しているのでしょう。
江ノ島線の上り列車に乗車すると、東林間の次は町田だったという時代があることになります。
さて、相模大野が設置されたのがいつなのかというと、それは1938年4月1日のことでした。
駅が設置されたのは、大日本帝国陸軍の陸軍通信学校が移転してきたことがきっかけで、開業当時の駅名は通信学校でした。
通信学校という駅名だった期間は短く、軍の施設を隠すため、1940年12月15日には現在の駅名である相模大野に改称されています。
戦時色が濃くなってきた頃に相模大野は誕生したわけですが、結局早々に施設の存在は隠されてしまい、終戦後は江ノ島線の分岐点としての役目を担うこととなりました。
陸軍通信学校が存在した名残は地図を見ると分かりますが、多くの商業施設で賑わう現在の姿からは、かつてそこが軍都であったことは想像もできませんね。
江ノ島線の各駅停車は相模大野で折り返す列車が多く、江ノ島線にとってなくてはならない存在の駅となっています。
そんな相模大野が設置されたのは1938年のことですが、江ノ島線が開業したのは1929年であり、9年の空白期間がありました。
江ノ島線の起点である相模大野駅
小田原線の列車に乗ってきて、相模大野で江ノ島線の当駅始発列車に乗り換える、利用者にとっては当たり前となっている江ノ島線の日常です。営業上は相模大野から江ノ島線が分岐していますが、施設上の分岐点は駅から200m進んだ位置にある相模大野分岐点となっており、厳密には江ノ島線が分岐するのは相模大野ではないことになります。
相模大野は新宿方に引き上げ線が設けられており、江ノ島線内の各駅停車は多くがここで折り返しを行います。
多くの列車が行き交う中で、合間を縫って折り返しが行われており、ホームの端で眺めると楽しい光景です。
小田原線と江ノ島線の分岐は小田原方にありますが、上り線は小田原線の上を通る立体交差となっており、お互いの列車を支障しないようになっています。
これは1929年の開業時からのことで、当時としては過剰な投資ではあったものの、後の発展を支える先行投資となりました。
江ノ島線の開業時には存在しなかった相模大野駅
江ノ島線にとってなくてはならない相模大野ですが、江ノ島線が開業した1929年には駅がありませんでした。開業当時は、現在の駅から200m進んだ位置に大野信号所が設けられ、小田原線から江ノ島線が分岐することとなりました。
つまり、これが現在の相模大野分岐点であり、当時の名残ともいえます。
古くから栄えていた町田とは異なり、江ノ島線が開業した当時の相模大野付近は何もないような場所で、駅を設けずに信号所で済まされたのです。
相模大野がなかったということは、江ノ島線に乗り換える駅は町田であったことを意味しており、現在も江ノ島線との結び付きが強いのは、そのような経緯も少なからず関係しているのでしょう。
江ノ島線の上り列車に乗車すると、東林間の次は町田だったという時代があることになります。
さて、相模大野が設置されたのがいつなのかというと、それは1938年4月1日のことでした。
駅が設置されたのは、大日本帝国陸軍の陸軍通信学校が移転してきたことがきっかけで、開業当時の駅名は通信学校でした。
通信学校という駅名だった期間は短く、軍の施設を隠すため、1940年12月15日には現在の駅名である相模大野に改称されています。
戦時色が濃くなってきた頃に相模大野は誕生したわけですが、結局早々に施設の存在は隠されてしまい、終戦後は江ノ島線の分岐点としての役目を担うこととなりました。
おわりに
何もなかったような場所が軍都となり、信号所から駅に昇格して誕生した相模大野。陸軍通信学校が存在した名残は地図を見ると分かりますが、多くの商業施設で賑わう現在の姿からは、かつてそこが軍都であったことは想像もできませんね。
コメント
コメント一覧 (10)
ワタシダ
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敗戦色って
何が分かったの?雰囲気とか。
ワタシダ
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バブル期にはこれを地下化する案もあったようですが、さすがに位置エネルギーの無駄遣いだと思いましたし、実際案だけで終わったようです。
ワタシダ
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そして種別幕もまだ無表示の頃です。
ワタシダ
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名古屋鉄道では運賃計算のための枇杷島分岐点が設定されているようです。
ワタシダ
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