複々線化が完了したこともあり、より一層必要性が増したともいえる小田急と東京メトロの相互直通運転。
現在は小田急とJR東日本の常磐緩行線も相互直通運転を行い、3社の車両がお互いの路線を行き来するようになりました。
小田急と千代田線の相互直通運転は1978年に開始されましたが、千代田線の部分開業からはそこそこ時間が経ってからのことでした。
開業当時は5000系が3両で行き来する路線でしたが、1970年12月14日には5両化が行われています。
千代田線の延伸は比較的早いペースで進み、1971年3月20日には大手町から霞ケ関までが開業、10両編成化が行われるとともに、6000系が営業運転を開始しました。
1ヶ月後の4月20日には北千住から綾瀬までも開業し、国鉄の常磐緩行線との相互直通運転が開始されています。
1972年10月20日には代々木公園から霞ケ関までが開業し、ついに小田急の近くまで千代田線が到達することとなりました。
最初の部分開業から3年程度で、ほぼ全通に近い状態が完成していたことになり、この頃には小田急も乗り入れ用の9000形を次々に増備しています。
代々木上原から代々木公園までの工事もこの頃に始まりますが、ここで足踏みをすることとなってしまいました。
これは小田急の高架化や複々線化が絡んでいたためで、そもそも工事の着手自体が遅れていたのです。
当初は1974年度の完成を見込んでいたようで、1974年度内に9000形が88両まで出揃っていることからも、その計画で進められていたことが分かります。
相互直通運転は始まらないものの、千代田線が代々木公園まで開通したことで、乗り換え自体は可能な状況となりました。
当時の乗り換えは、代々木八幡と代々木公園で行われており、小田急では平日の朝に上りの準急を代々木八幡に停車させる対応を行っています。
しかし、目標としていた1974年度の完成はできず、千代田線が代々木上原まで全通したのは1978年3月31日のことでした。
予定より3年程度遅れていたことになりますが、部分開業から約8年後、ついに小田急と千代田線の相互直通運転が開始されました。
複々線が完成したことで、現在は多くの列車が乗り入れるようになりましたが、幾多の苦労を乗り越えて現在の状況に至ったことを思うと、関わった方々には本当に頭が下がります。
現在は小田急とJR東日本の常磐緩行線も相互直通運転を行い、3社の車両がお互いの路線を行き来するようになりました。
小田急と千代田線の相互直通運転は1978年に開始されましたが、千代田線の部分開業からはそこそこ時間が経ってからのことでした。
1969年に開業した千代田線
代々木上原から綾瀬までを結ぶ千代田線は、1969年12月20日に大手町から北千住までが部分開業してスタートしました。開業当時は5000系が3両で行き来する路線でしたが、1970年12月14日には5両化が行われています。
千代田線の延伸は比較的早いペースで進み、1971年3月20日には大手町から霞ケ関までが開業、10両編成化が行われるとともに、6000系が営業運転を開始しました。
1ヶ月後の4月20日には北千住から綾瀬までも開業し、国鉄の常磐緩行線との相互直通運転が開始されています。
1972年10月20日には代々木公園から霞ケ関までが開業し、ついに小田急の近くまで千代田線が到達することとなりました。
最初の部分開業から3年程度で、ほぼ全通に近い状態が完成していたことになり、この頃には小田急も乗り入れ用の9000形を次々に増備しています。
代々木上原から代々木公園までの工事もこの頃に始まりますが、ここで足踏みをすることとなってしまいました。
完成が遅れた最後の区間
このまま一気に全通をするような勢いですが、代々木上原から代々木公園までの1駅だけが、完成まで時間を要することとなりました。これは小田急の高架化や複々線化が絡んでいたためで、そもそも工事の着手自体が遅れていたのです。
当初は1974年度の完成を見込んでいたようで、1974年度内に9000形が88両まで出揃っていることからも、その計画で進められていたことが分かります。
相互直通運転は始まらないものの、千代田線が代々木公園まで開通したことで、乗り換え自体は可能な状況となりました。
当時の乗り換えは、代々木八幡と代々木公園で行われており、小田急では平日の朝に上りの準急を代々木八幡に停車させる対応を行っています。
しかし、目標としていた1974年度の完成はできず、千代田線が代々木上原まで全通したのは1978年3月31日のことでした。
予定より3年程度遅れていたことになりますが、部分開業から約8年後、ついに小田急と千代田線の相互直通運転が開始されました。
おわりに
小田急の複々線化が進まなかったことで、当初は乗り入れる列車の本数は限られたものでした。複々線が完成したことで、現在は多くの列車が乗り入れるようになりましたが、幾多の苦労を乗り越えて現在の状況に至ったことを思うと、関わった方々には本当に頭が下がります。
コメント
コメント一覧 (20)
ワタシダ
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はっきりいつかは覚えていませんが、日中も直通する頃には、代々木公園の運賃が表示されるようになったと思います。
ワタシダ
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ワタシダ
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当時の「停車駅のご案内」は小田急線を太い青の線で示し、急行準急停車駅は赤丸、準急停車駅は黄丸、各駅停車のみの駅は白丸のシンプルな物でした。
ワタシダ
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私はその頃、まだ小学生でした。直通開始の少し前から営団地下鉄の6000系が小田急線に試運転でちょくちょく乗り入れしていたのを憶えてます。
当時、線路脇を歩いていて千代田線の電車がノロノロやってきただけで、子供たちから「おーっ、千代田線だ!」という歓声が挙がってましたね。
その頃の小田急線の生田付近はクリーム色にブルーの帯の通常電車か、赤いロマンスカーしか来なかったので(確か茶色い荷物車がまれに単行で走っていたような記憶が…)、子供たちにはアイドルのような存在だったのです。
自分にとっても、あの都会的な前面に銀色の車体が生田の田畑の中を東京の方へ駆け抜けていくと、何か眩しい未来に繋がっていくような、そんな気がしましたね。
それが今やジャカルタですからね…現地の方には6000系はどう映るのでしょうか。いづれにしても末長い活躍を祈ってます。
ワタシダ
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ワタシダ
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ただ喜多見を終着駅にすると、世田谷区内が小田急線とほぼほぼ競合するので小田急側が難色を示し、かわりに代々木上原~喜多見間を複々線化することで折り合いをつけたように思います。
多摩ニュータウン開発時に、小田急側の路線が当初は喜多見から分岐する計画だったのは、この名残りのように思います。
ワタシダ
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千代田線が代々木上原まで開通した当初は乗り入れは朝夕だけで1日十数本しかなかった覚えがあります。
もう一つ、今では考えられないことですが、当時は排熱で暑くなるという理由で営団地下鉄は冷房不使用、千代田線からの乗り入れてくる営団6000は非冷房車、小田急9000も千代田線内は冷房不使用でした。
1980年代のどこかで地下鉄も冷房ということに変わったと記憶しています。
また小田急乗り入れ不可でしたが、千代田線には当時の東西線と同じ5000も走っていましたし、国鉄常磐線から代々木上原まで来ていたのは103系1000番台でした。
ワタシダ
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千代田線は1974(昭和49)年度の全線開業を目指していたものの、小田急側の複々線化・高架化だけでなくオイルショックの影響もあり実際開業したのは1978(昭和53)年3月31日(1977年度)になってしまいました。それはさておき、僕の父は大学を卒業した1977(昭和52)年4月に団体職員となり一昨年6月末日に退職しましたが、最初の1年間は千代田線が代々木上原まで繋がっていなかったので、代々木公園で乗り換えていたと耳にしたことがあります。
40年の歴史を語ると長くなってしまいますが、2000(平成12)年改正で少しずつ増発され、2016(平成28)年改正で3社による直通運転が本格化し、2018(平成30)年改正では各駅停車による直通運転が開始されたことは印象に残っています。各駅停車の直通運転はこれまで千代田線車両が停車しなかった駅に停車するようになり、僕にとっては感慨深いものとなりました。JR車に関しても371系(JR東海)が停車することのなかった渋谷・世田谷の2区・狛江市・川崎市に停車するようになった姿は新鮮さを感じました。
僕は06系や6000系が緩行線を走行し、各駅停車となってかつて利用していた最寄り駅に停まる姿をこの目で見て見たかったです。今思い出してもこれらの車両が緩行線を走行しなかったのは残念でなりません。
ワタシダ
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常磐線との乗り入れと代々木公園までの開業がほぼ問題がなかったのとは対照的で、昔から小田急は複々線化計画に翻弄されやすい宿命を背負っとることが伺えます。
ちなみに私の地元でも大阪メトロ堺筋線は動物園前〜天下茶屋の1駅間だけかなり遅れて開業しました。これは元々1970年に開催された大阪万博の開催場所(吹田市にて開催され、それに伴い阪急との乗り入れが決定しました)が関係しとるのですが、やはりもう一つの乗り入れ先候補であった南海がどうしても堺筋線と接続させたいという気持ちがあったのかもしれません。
ワタシダ
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