複々線化が行われたことで、沿線の風景が一変した小田急の小田原線。
平成以降の時代では複々線化による変化が目立ちますが、昭和という時代に目を向けると、線形が大きく変化した区間が存在します。
それは読売ランド前から柿生までの区間で、かつては途中に駅がありませんでした。
渋沢から新松田までの約6.2km、東海大学前から秦野までの約4.7kmに次ぐ3位の駅間距離であり、そのような区間が東京都を出て少しのエリアにあったのです。
宅地化が進んだ今では信じられませんが、丘陵地帯である百合ヶ丘付近は発展が遅れ、本格的な開発が行われたのは戦後になってからのことでした。
電車に乗って外を気にしていると、読売ランド前から先はカーブが多く、地形による制約を受けながら線路が敷かれたことが分かります。
現在は新百合ヶ丘が主要駅として位置付けられ、緩急接続や急急接続が行われていますが、かつてその役目を担っていたのは待避線を備えていた柿生でした。
つまり、向ヶ丘遊園、柿生、町田、このように待避線を備える駅が並んでいた時代があったのです。
駅が設置されたのは、日本住宅公団によって百合丘団地が建設されたためで、入居の開始に合わせて駅の歴史もスタートしました。
ホームの延長等によって分からなくなっていますが、元々は待避線の設置が考慮されており、しっかりとした駅前広場も設けられました。
開業時は将来的な発展も考慮していたのだと考えられますが、多摩線の分岐駅として新百合ヶ丘が設置され、主要駅の役目はそちらが担うこととなります。
百合ヶ丘駅の開業から約14年後の1974年、少し小田原寄りに進んだ位置に新百合ヶ丘駅が設置されました。
喜多見付近から分岐することが検討されていた多摩線は、京王の相模原線とルートが競合することを避けるため、分岐の位置を百合ヶ丘付近へと変更します。
しかし、百合ヶ丘付近にはカーブが多いという問題があったため、線形を改良してカーブを減らし、同時に新駅として新百合ヶ丘が設けられたのです。
元々の線路は、津久井道にほぼ並行するようなルートとなっており、新百合ヶ丘の新宿寄り付近からカーブを描いていました。
そのカーブをまっすぐ貫くように駅が設置され、ルートは新線へと切り替えられましたが、小田急の歴史上でここまで線形が変更されたケースは他になく、かなり珍しい事例となっています。
こうして駅がなかった約4.4kmの区間は大きく変化し、それぞれの駅間も2km以下となっています。
今では10両の列車が行き交っており、そんな時代は遠い過去となりました。
この頃は駅名の変更も盛んであり、様々な変化が小田急で生じた時期でもありました。
平成以降の時代では複々線化による変化が目立ちますが、昭和という時代に目を向けると、線形が大きく変化した区間が存在します。
それは読売ランド前から柿生までの区間で、かつては途中に駅がありませんでした。
途中に駅がなかった読売ランド前から柿生までの区間
読売ランド前、百合ヶ丘、新百合ヶ丘、柿生と駅が並ぶ川崎市内ですが、かつては読売ランド前から柿生まで駅がなく、その駅間は約4.4kmにも及びました。渋沢から新松田までの約6.2km、東海大学前から秦野までの約4.7kmに次ぐ3位の駅間距離であり、そのような区間が東京都を出て少しのエリアにあったのです。
宅地化が進んだ今では信じられませんが、丘陵地帯である百合ヶ丘付近は発展が遅れ、本格的な開発が行われたのは戦後になってからのことでした。
電車に乗って外を気にしていると、読売ランド前から先はカーブが多く、地形による制約を受けながら線路が敷かれたことが分かります。
現在は新百合ヶ丘が主要駅として位置付けられ、緩急接続や急急接続が行われていますが、かつてその役目を担っていたのは待避線を備えていた柿生でした。
つまり、向ヶ丘遊園、柿生、町田、このように待避線を備える駅が並んでいた時代があったのです。
戦後に誕生した二つの百合ヶ丘駅
読売ランド前から柿生までの区間に変化が生じたのは、1960年に百合ヶ丘駅が設置されたことでした。駅が設置されたのは、日本住宅公団によって百合丘団地が建設されたためで、入居の開始に合わせて駅の歴史もスタートしました。
ホームの延長等によって分からなくなっていますが、元々は待避線の設置が考慮されており、しっかりとした駅前広場も設けられました。
開業時は将来的な発展も考慮していたのだと考えられますが、多摩線の分岐駅として新百合ヶ丘が設置され、主要駅の役目はそちらが担うこととなります。
百合ヶ丘駅の開業から約14年後の1974年、少し小田原寄りに進んだ位置に新百合ヶ丘駅が設置されました。
喜多見付近から分岐することが検討されていた多摩線は、京王の相模原線とルートが競合することを避けるため、分岐の位置を百合ヶ丘付近へと変更します。
しかし、百合ヶ丘付近にはカーブが多いという問題があったため、線形を改良してカーブを減らし、同時に新駅として新百合ヶ丘が設けられたのです。
元々の線路は、津久井道にほぼ並行するようなルートとなっており、新百合ヶ丘の新宿寄り付近からカーブを描いていました。
そのカーブをまっすぐ貫くように駅が設置され、ルートは新線へと切り替えられましたが、小田急の歴史上でここまで線形が変更されたケースは他になく、かなり珍しい事例となっています。
こうして駅がなかった約4.4kmの区間は大きく変化し、それぞれの駅間も2km以下となっています。
今では10両の列車が行き交っており、そんな時代は遠い過去となりました。
おわりに
今回の記事では、当時の駅名が異なる場合においても、分かりやすくするために現在の駅名で表記しています。この頃は駅名の変更も盛んであり、様々な変化が小田急で生じた時期でもありました。
コメント
コメント一覧 (11)
当然小田急は旧線で、当時バス走行区間だった今の麻生警察署~百合ヶ丘は線路と道路が至近距離。
小田急旧線は「万福寺坂」のS字カーブ&勾配線形で、速度上がらず。
一方津久井道は交通量が少なく、信号も百合ヶ丘駅分岐まで無かった為、なんと!小田急バスとミュージックホーン鳴らすNSEが、ランデブーなんて事がありました。(今思えば、運ちゃんも気合い入ってたか?)
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
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急行が停まらない相武台前が住まいでしたので、新宿から帰って来るときはいつも向ヶ丘遊園で各停に乗り換えてましたが、柿生で急行に抜かれてました。
新百合ヶ丘駅がどんどん完成していくのを通過する車内から興味深く見たものです。
何もない広大は土地に巨大な駅が出来ていくのは
いまだに記憶に残っています。
ワタシダ
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新百合ヶ丘の駅前には、東急、西武資本が大規模に開発に関与しており、沿線の開発余地を十分グループで活かせなかったのはもったいない。
ワタシダ
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本格的に栄えるようになったのは1960年代から進められた宅地開発で百合ヶ丘地区に2駅が設けられ、多摩線が開業した頃からですが、それでも当時の駅周辺は田畑ばかりで何もない更地ばかりやったそうですとか(東海道新幹線新横浜も開業当時は「こだま」のみの停車で駅周辺は田畑ばかりで何もない更地ばかりで新幹線停車駅としては寂しい雰囲気でした)。このように昔と今を比べると如何に沿線の雰囲気が変化したかが改めて窺えるとても感慨深い内容ですね。これからもこうした小田急の今昔物語に関する投稿がとても楽しみです。
ワタシダ
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