日中は各駅停車ばかりになってしまったとはいえ、現在は快速急行や急行も走るようになった小田急の多摩線。
一昔前は各駅停車ばかりが走り、小田原線と直通運転をする列車は僅かでした。

多摩急行が登場するまで、多摩線といえば各駅停車ばかりの路線でしたが、開業時はどのように列車が運行されていたのでしょうか。
何もないような場所に線路を敷いたため、開業時は乗客がほとんどいない状況で、真新しい線路をガラガラの電車が走る状態でした。
開業当時の多摩線は4両編成で運転され、車両はABF車と総称される1700形と1900形が使われました。
途中で編成が入れ替わるものの、多摩線内はたったの2編成で運用されており、栗平付近ですれ違うようなダイヤが組まれていました。
日中の運行間隔は15分前後で、平日の11時以降に新百合ヶ丘を発車する時刻を見ていくと、以下のようになります。
・11時1分
・11時16分
・11時30分
・11時42分
・12時00分
・12時15分
・12時30分
・12時43分
・13時01分
・13時12分
・13時30分
・13時43分
・14時01分
・14時13分
・14時31分
・14時43分
15分ヘッドでの運行となっていますが、線内を行ったり来たりするだけの割には間隔が揃っておらず、20分程度待たされる場合もあったようです。
列車の間隔は朝のラッシュ時でもほぼ変わらず、夜間に広がるぐらいの変化しかありませんでした。
この2本だけは20m車の6両での運転で、基本的には2600形が充当されたようですが、運用上は9000形の6両も含まれており、どの程度走る機会があったのかは気になるところです。
初電から7時台まで、平日の小田急永山を発車する列車は、以下のとおりとなっていました。
・5時44分(新百合ヶ丘行き)
・6時20分(新百合ヶ丘行き)
・6時41分(新百合ヶ丘行き)
・6時57分(新宿行き)
・7時9分(新宿行き)
・7時17分(新百合ヶ丘行き)
・7時30分(新百合ヶ丘行き)
・7時43分(新百合ヶ丘行き)
・7時56分(新百合ヶ丘行き)
7時前後の2本のみが新宿行きで、列車の間隔が通常より詰まっていました。
休日ダイヤでは小田原線への直通列車がなく、線内を折り返す運用のみとなっています。
朝のラッシュ時に走っていた新宿行きの各駅停車には、どれぐらいの乗客がいたのか、そのあたりも気になりますね。
一昔前は各駅停車ばかりが走り、小田原線と直通運転をする列車は僅かでした。

多摩急行が登場するまで、多摩線といえば各駅停車ばかりの路線でしたが、開業時はどのように列車が運行されていたのでしょうか。
ガラガラだった開業時の多摩線
小田急の多摩線は、1974年6月1日に新百合ヶ丘から小田急永山までが部分開業しました。何もないような場所に線路を敷いたため、開業時は乗客がほとんどいない状況で、真新しい線路をガラガラの電車が走る状態でした。
開業当時の多摩線は4両編成で運転され、車両はABF車と総称される1700形と1900形が使われました。
途中で編成が入れ替わるものの、多摩線内はたったの2編成で運用されており、栗平付近ですれ違うようなダイヤが組まれていました。
日中の運行間隔は15分前後で、平日の11時以降に新百合ヶ丘を発車する時刻を見ていくと、以下のようになります。
・11時1分
・11時16分
・11時30分
・11時42分
・12時00分
・12時15分
・12時30分
・12時43分
・13時01分
・13時12分
・13時30分
・13時43分
・14時01分
・14時13分
・14時31分
・14時43分
15分ヘッドでの運行となっていますが、線内を行ったり来たりするだけの割には間隔が揃っておらず、20分程度待たされる場合もあったようです。
列車の間隔は朝のラッシュ時でもほぼ変わらず、夜間に広がるぐらいの変化しかありませんでした。
開業時から存在した新宿への直通運転
終日に渡って線内を往復する列車が基本の多摩線でしたが、朝方に2本だけ小田原線に直通して新宿まで走る各駅停車が存在しました。この2本だけは20m車の6両での運転で、基本的には2600形が充当されたようですが、運用上は9000形の6両も含まれており、どの程度走る機会があったのかは気になるところです。
初電から7時台まで、平日の小田急永山を発車する列車は、以下のとおりとなっていました。
・5時44分(新百合ヶ丘行き)
・6時20分(新百合ヶ丘行き)
・6時41分(新百合ヶ丘行き)
・6時57分(新宿行き)
・7時9分(新宿行き)
・7時17分(新百合ヶ丘行き)
・7時30分(新百合ヶ丘行き)
・7時43分(新百合ヶ丘行き)
・7時56分(新百合ヶ丘行き)
7時前後の2本のみが新宿行きで、列車の間隔が通常より詰まっていました。
休日ダイヤでは小田原線への直通列車がなく、線内を折り返す運用のみとなっています。
おわりに
今もどこかのんびりとしたムードが漂う多摩線ですが、開業時はさらにのんびりムードの路線で、あまりにも利用者が少ないことから2両への減車も行われました。朝のラッシュ時に走っていた新宿行きの各駅停車には、どれぐらいの乗客がいたのか、そのあたりも気になりますね。
コメント
コメント一覧 (28)
多摩線開通の頃の朝の上りですが、向ケ丘遊園基準でいえば
・AM700前は、6分に2本(急行+各停)→3分間隔では急行の渋滞はまだ少
・AM700過ぎから、6分に3本(急行+準急+各停=向ヶ丘遊園始発)→2分間隔では急行も準急も渋滞
駅で止まるのが各停、駅間で止まるのが急行と準急、です
その、向ヶ丘遊園始発が、2本だけ小田急永山始発になりました
従って、向ケ丘遊園→新宿間は、増発はゼロ(特に問題なし)
新百合ヶ丘→向ヶ丘遊園間のみ、各停が準急の後に割り込んだ形です
各停まえの準急2本だけが、百合ヶ丘/読売ランド前/生田通過(前面に3駅通過表示あり)
ただしその3駅の上り乗車客は次の急行に結果のることになり、平均化で少しアンバランス
個人的な意見ですが、3駅通過は2分前の準急ではなく、
小田急永山発新宿行きの各停が本来行なうのが良いと勝手に思っていました
(ただしそんなことをしたら、種別はどうなるのでしょう?特別各停やスキップ各停など考えにくいですが)
ちなみに、その2本の各停ですが、多摩線開通のころから結構なときまで、新百合ヶ丘で何とか座れました
記憶にある限り、100%2600系でしたね、よく利用しました
ワタシダ
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自宅の建替えで無くなってしまいましたが、もしかしたら管理人さんはお持ちかもしれませんが、コミュニケート小田急の表紙に2200形引退・さよなら運転が多摩線で行なわれた際の2215号(2213号かも)の写真が有ります。
ワタシダ
が
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五十代半ばですが、子供のころ多摩線に乗った際に、1000系の二両編成も走っていたような想い出があるのですが、気のせいでしょうか?
ワタシダ
が
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当時の京王相模原線系統は快速で笹塚までのの停車駅が多かったけど
それでも小田急よりも距離が短く
対新宿での所要時間では小田急に勝ち目が無かったし…
小田急にしてみれば後手を踏んでしまった中での開業だったから……
ワタシダ
が
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逆に直通だった片瀬江ノ島までが枝線化され衰退するのではと心配。 枝線化後の初めての夏は、海に行く人の乗り換えでホームはごった返し。
観光地だからか開業時の多摩線ホームのようにはならなかった。
ワタシダ
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経堂出庫で新百合ヶ丘まで回送
新百合ヶ丘から多摩センターまで各停 多摩センター3番折返
多摩センターから向ヶ丘遊園まで回送
向ヶ丘遊園から各停新宿行き
って感じだった。
当時は朝は下りの方が混雑が激しいのが多摩線の特徴だった
ワタシダ
が
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そうなると今の新百合ヶ丘の発展も無かったのかも知れません。
ワタシダ
が
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2両または4両編成の多摩線を利用していました。
五月台と栗平に高校がある為、満員ギュウギュウ
状態で、夏は暖房車、冬は冷房車でした。
当時、五月台駅と黒川駅は無人駅でしたね。
ワタシダ
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新宿(方面)への通勤・通学客は、新百合で急行に乗り換えるような気がするのですが…。新百合での対面乗り換えを可能にするためでしょうか?
それとも、比較的早い時間の設定だったので、多摩線内からそのまま乗り通す人がいるという想定だったのでしょうか?
あるいは、多摩線内に6両の大型車を走らせることが目的だったのか?
当時、私は、新百合で下り方面に乗り換えていたので、新宿直通列車の恩恵にはあずかりませんでしたが、何故新宿行きがあるのか、ずっと不思議に思っていました。
ワタシダ
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北口には公衆電話が一台あるだけで、谷地に沿ったあぜ道が鶴川街道まで通じているだけでした
ワタシダ
が
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その後、多摩線は、1900形同士で4両編成から2両編成に置き換えられて、さらに、1900形の廃車により、2200形の2両編成に置き換えられましたね。私は、1900形の2両編成、および、2200形の2両編成のいずれにも乗車した記憶があります。
個人的には、1800形を多摩線で使ってほしかったな、と思います。1981年7月のさよなら運転以外で、1800形が多摩線で営業運転をした実績は、果たしてあるのだろうかと、気になっています。
ワタシダ
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ワタシダ
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その後8000形の4両がHE車の後を継ぐようになった時は驚きました。
どうせ次に古い4000形か5000形が来るのだろうと思ってましたから。
ワタシダ
が
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↓
ワタシダ
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ワタシダ
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ワタシダ
が
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