小田急の駅の中で最も利用者が多く、一日を通して多くの列車が発着している新宿駅。
今後は小田急百貨店を超高層ビルに建て替える工事が予定されており、駅周辺の風景は一変することが予想されます。
超高層ビルの建設によって、駅自体にどこまでの影響があるのかは分かりませんが、小田急の新宿駅といえば、短期間に二度の改良工事を行った歴史が有名です。
僅か8年で改良工事をやり直すことになってしまった、不幸な歴史を詳しく振り返ってみたいと思います。
駅や車両の設備についても、それに合わせた規模のものとなっており、新宿も今のような立体構造ではなく、地上のみの4線で列車をさばいていました。
小田急の新宿は、両端が国鉄と京王に挟まれる土地であり、その幅は40m程度しかありません。
その中に降車ホームも含めた4線が配置されており、利用者の増加によって混雑への対応は厳しいものとなっていきました。
戦後から10年程度で、小田急の利用者は2倍になっており、新宿の駅をどうするかは頭の痛い問題でした。
そこで、狭い土地の中でホームの幅を広げつつ線路の本数を増やすため、新宿の駅構内は立体化されることに決まり、1回目の改良工事が行われることとなりました。
当時の小田急がどんな状況だったのかというと、ロマンスカーの3000形(SE)が登場して華やかな時代を迎え、輸送力の増強用に2400形が大量増備されつつある頃でした。
改良工事は南新宿の周辺も含めた大掛かりなもので、列車の運行を継続しつつ駅を立体化する内容となっています。
現在と位置が異なる南新宿付近で線路は地上と地下に別れ、ポイントから新宿までは短い複々線となりました。
この配線により、新宿から南新宿の間は待避線に近い使い方も可能となっており、駅を出発した列車が線路上で優等列車を待避することで、早めにホームを空けることができるようになっています。
ターミナル駅が上下に重なっている構造は、当時としてもかなり珍しいもので、この改良工事によって新宿の混雑は解消し、将来的な輸送力増強にも対応できることが期待されていました。
しかし、増え続ける乗客は小田急の予想をはるかに超えており、この改良工事には重大な見込み違いが潜んでいました。
改良工事後の新宿は、地上を3線、地下を2線としつつ、各線路が降車ホームを持つ配置とされましたが、地上と地下に線路を分けたことでホームの幅は広がっています。
ホームの長さは、地上が120m、地下が150mとなっており、工事の時点で地上も150mまでの延長が考慮されていましたが、これが決定的な見込み違いとなってしまいました。
この長さは、中型車の8両と大型車の6両を想定していたもので、その後大型車の8両や10両が走ることになるとは、さすがに予想できなかったのでしょう。
改良工事は1964年2月に完成しましたが、利用者の増加は予想をはるかに超えるペースで進み、新宿は2回目の改良工事へと進んでいくことになります。
地上のホームは、大型車の8両に対応できるように改良されていましたが、既に小手先の対応ではどうにもならない状態となっていました。
工事は1972年9月より開始され、ホームの延長を中心とした規模の拡大が進められます。
この頃の小田急がどんな時期かといえば、通勤型車両として5000形や9000形が相次いで登場し、大型車による8両の運転が始まっていました。
多摩線の開業、営団地下鉄(現在の東京メトロ)千代田線との相互直通運転等も控えており、輸送力の増強は急務でした。
改良工事は地下からスタートし、地上の3線のみを使用した厳しい状態で工事が進められます。
2回目の改良工事では南新宿の移設も行われ、ロマンスカーの減便を伴う苦しいダイヤ設定が求められました。
ホームを改札側に延長できればよかったものの、既にある施設との関係でそれができず、やむを得ず小田原方に延長する必要がありました。
これによって地上と地下に分岐するポイントも移設を行う必要が生じてしまい、南新宿の移設へと繋がっています。
用地が狭く、終電から初電までの短い時間を中心に工事を行う必要があったため、地下の閉鎖は長期間に渡ってしまい、工事の開始から9年後となる1981年まで続きます。
使用の再開は7月13日のことで、各駅停車は地下からの発着へと切り替えられました。
しかし、これで工事は終わらず、同日からは地上の1番ホームと2番ホームが閉鎖され、工事の仕上げが進められていきます。
10月10日からは、1番ホームと2番ホームの使用を再開し、今度は3番ホームと4番ホームが閉鎖されました。
年が明けた1982年1月12日からは、3番ホームと4番ホームの使用を再開し、最後の仕上げを行うべく、5番ホームと6番ホームが閉鎖されることとなります。
長きに渡った改良工事は1982年4月1日に完成し、現在と基本的には同様の状態となりました。
最初の工事が始まった1960年から1982年まで、約22年間に渡り何らかの工事が行われているような状態は、この完成によってようやく終わりを告げたのです。
改良工事後は安定した状態が今日まで続いてきましたが、小田急百貨店の建て替えによって、久し振りに大きな変化がありそうですね。
今後は小田急百貨店を超高層ビルに建て替える工事が予定されており、駅周辺の風景は一変することが予想されます。
超高層ビルの建設によって、駅自体にどこまでの影響があるのかは分かりませんが、小田急の新宿駅といえば、短期間に二度の改良工事を行った歴史が有名です。
僅か8年で改良工事をやり直すことになってしまった、不幸な歴史を詳しく振り返ってみたいと思います。
改良前の新宿駅
現代の高密度な運転状況からは信じられないことですが、戦前から戦後にかけての小田急は、今とは比較にならないほど規模の小さな鉄道会社でした。駅や車両の設備についても、それに合わせた規模のものとなっており、新宿も今のような立体構造ではなく、地上のみの4線で列車をさばいていました。
小田急の新宿は、両端が国鉄と京王に挟まれる土地であり、その幅は40m程度しかありません。
その中に降車ホームも含めた4線が配置されており、利用者の増加によって混雑への対応は厳しいものとなっていきました。
戦後から10年程度で、小田急の利用者は2倍になっており、新宿の駅をどうするかは頭の痛い問題でした。
そこで、狭い土地の中でホームの幅を広げつつ線路の本数を増やすため、新宿の駅構内は立体化されることに決まり、1回目の改良工事が行われることとなりました。
見込みを誤った最初の改良工事
新宿の改良工事は、1960年4月に着工しました。当時の小田急がどんな状況だったのかというと、ロマンスカーの3000形(SE)が登場して華やかな時代を迎え、輸送力の増強用に2400形が大量増備されつつある頃でした。
改良工事は南新宿の周辺も含めた大掛かりなもので、列車の運行を継続しつつ駅を立体化する内容となっています。
現在と位置が異なる南新宿付近で線路は地上と地下に別れ、ポイントから新宿までは短い複々線となりました。
この配線により、新宿から南新宿の間は待避線に近い使い方も可能となっており、駅を出発した列車が線路上で優等列車を待避することで、早めにホームを空けることができるようになっています。
ターミナル駅が上下に重なっている構造は、当時としてもかなり珍しいもので、この改良工事によって新宿の混雑は解消し、将来的な輸送力増強にも対応できることが期待されていました。
しかし、増え続ける乗客は小田急の予想をはるかに超えており、この改良工事には重大な見込み違いが潜んでいました。
改良工事後の新宿は、地上を3線、地下を2線としつつ、各線路が降車ホームを持つ配置とされましたが、地上と地下に線路を分けたことでホームの幅は広がっています。
ホームの長さは、地上が120m、地下が150mとなっており、工事の時点で地上も150mまでの延長が考慮されていましたが、これが決定的な見込み違いとなってしまいました。
この長さは、中型車の8両と大型車の6両を想定していたもので、その後大型車の8両や10両が走ることになるとは、さすがに予想できなかったのでしょう。
改良工事は1964年2月に完成しましたが、利用者の増加は予想をはるかに超えるペースで進み、新宿は2回目の改良工事へと進んでいくことになります。
地上のホームは、大型車の8両に対応できるように改良されていましたが、既に小手先の対応ではどうにもならない状態となっていました。
僅か8年後に開始された2回目の改良工事
改良工事を終えて立体化された新宿ですが、将来的に大型車の10両を運転することに備え、僅か8年後には2回目の改良工事を行うこととなりました。工事は1972年9月より開始され、ホームの延長を中心とした規模の拡大が進められます。
この頃の小田急がどんな時期かといえば、通勤型車両として5000形や9000形が相次いで登場し、大型車による8両の運転が始まっていました。
多摩線の開業、営団地下鉄(現在の東京メトロ)千代田線との相互直通運転等も控えており、輸送力の増強は急務でした。
改良工事は地下からスタートし、地上の3線のみを使用した厳しい状態で工事が進められます。
2回目の改良工事では南新宿の移設も行われ、ロマンスカーの減便を伴う苦しいダイヤ設定が求められました。
ホームを改札側に延長できればよかったものの、既にある施設との関係でそれができず、やむを得ず小田原方に延長する必要がありました。
これによって地上と地下に分岐するポイントも移設を行う必要が生じてしまい、南新宿の移設へと繋がっています。
用地が狭く、終電から初電までの短い時間を中心に工事を行う必要があったため、地下の閉鎖は長期間に渡ってしまい、工事の開始から9年後となる1981年まで続きます。
使用の再開は7月13日のことで、各駅停車は地下からの発着へと切り替えられました。
しかし、これで工事は終わらず、同日からは地上の1番ホームと2番ホームが閉鎖され、工事の仕上げが進められていきます。
10月10日からは、1番ホームと2番ホームの使用を再開し、今度は3番ホームと4番ホームが閉鎖されました。
年が明けた1982年1月12日からは、3番ホームと4番ホームの使用を再開し、最後の仕上げを行うべく、5番ホームと6番ホームが閉鎖されることとなります。
長きに渡った改良工事は1982年4月1日に完成し、現在と基本的には同様の状態となりました。
最初の工事が始まった1960年から1982年まで、約22年間に渡り何らかの工事が行われているような状態は、この完成によってようやく終わりを告げたのです。
おわりに
2回の改良工事によって、10両が発着できる立派な駅となった小田急の新宿。改良工事後は安定した状態が今日まで続いてきましたが、小田急百貨店の建て替えによって、久し振りに大きな変化がありそうですね。
コメント
コメント一覧 (10)
南新宿駅が新宿駅改修工事に伴い移転したという話は聞いたことがありますが、二度の工事の裏にそんな需要の増大と思わぬ誤算が生まれていたとは知りませんでした。
最後の改修工事から随分経ちまして、百貨店の建て替えで駅がどうなるのかまだ分かりませんが、
個人的にはロマンスカーホームにある「特急 Exp 」の古い看板がいつまでも残っていてくれたら私は嬉しいです
ワタシダ
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1964年2月と言えば東京オリンピックの半年前。3100形ロマンスカーが走り始めたころです。
ワタシダ
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ただ、梅田駅のホームは利用者増え過ぎて幅の拡張工事をしたけど
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どこの鉄道会社も、終着駅のホームはどこか公衆便所のような臭いがするのは気のせいでしょうか。
ワタシダ
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言われてみれば新宿は終点で乗降客数も多いのに他の大きな駅より幅狭く感じます。
その状況で大型車10両を収めることができたのは流石としか言いようがありません。
ワタシダ
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ちなみに戦後は国鉄と京王にホームを挟まれた構造やったそうですが、もし大東急が解散せず現在もそのままやったら、小田急と京王が同じホームで並ぶという阪急大阪梅田や南海難波のような構造になっとったのかもしれませんね(笑)
ワタシダ
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