ラッシュ対策の切り札として登場しながらも、思ったような成果を得ることができず、他の車両と同じように使われることとなった小田急1000形のワイドドア車。
車体の特殊性からか、リニューアルの対象からも外れてしまい、36両全車が廃車となりました。
ワイドドア車は1991年にデビューをしていますが、当時の印象はどのようなものだったのでしょうか。
各駅停車の8両化が行われ、優等列車は10両で運行されていましたが、輸送力は既に限界に達しつつあり、少しでも輸送力を増やすための対策が急がれる状況となっていきます。
設備面での対応が複々線化の進展を待つしかない状況の中、車両側の対応で乗降をスムーズに行うことを狙い、当時増備されていた1000形の仕様を変更し、ワイドドア車が登場しました。
特徴である大きな側扉は、それまでの1.3mから一気に2mにまで広げられ、側面の半分近くを側扉が占めるというとんでもない車両が生まれることとなります。
登場当初のワイドドア車は本数が少なく、ラッシュ時の利用を考慮した運用が組まれていたこともあり、幼い私はあまり目にする機会がない車両でした。
乗車することはほとんどなかったと記憶していますが、収納が可能な座席の構造や、車内の見付がそれまでの車両と異なっていたことが強く印象に残っています。
座席の数が減ったことで、利用者からも不評だったといわれていますが、たった20両しか走っていない登場当初において、この車両を引き当てる不運は相当なものだったのかもしれません。
そんなワイドドア車ですが、1992年に4両ばかりが4編成も増備されたことで、見かける機会が一気に増えることとなります。
8両の新宿方に配置され、私自身も乗車する機会が増えたことで、印象に残る車両となっていきました。
昔は2mのドアが全開していましたから、空いている時間帯の光景はなかなか違和感のあるものでした。
大きなドアは開閉に時間がかかっていたと記憶しており、動作も重々しいものだったと思います。
再開閉になってしまうと、ただでさえゆっくりと閉まる扉がゆっくりと開くため、他の車両では見られない面白さがありました。
しかし、個人的に強く印象に残っているのは、ドアよりも車内に設置されていた液晶画面で、近未来的な装備品にとてもわくわくさせられました。
1992年の増備車は全て液晶画面を採用していたため、当時はLEDの案内表示よりも目にする機会が多かったのです。
当時の液晶画面はまだまだ発展途上の段階で、経年劣化が激しく早々に撤去されてしまいましたが、その後改良されたものが3000形で採用され、現在は主流となっていることに、技術の進歩を感じずにはいられません。
その他にも、パワーウィンドウやドアチャイムといった他の車両にはない装備があり、これが未来の電車かといった印象でした。
前者は残念ながら定着しませんでしたが、後者は標準装備となっていきました。
ワイドドア車というと、どうしても大きなドアに目が向いてしまいますが、接客設備を中心に初採用となったものが意外に多く、試行錯誤の形式だったといえます。
登場した当初はそれらの装備品が目新しく、座れないことが多いという点を除けば、鉄道ファンとしては面白い車両でした。
静かな引退となってしまいましたが、この時代まで改造を重ねつつ使用されたのは、ある意味奇跡的だったのかもしれませんね。
車体の特殊性からか、リニューアルの対象からも外れてしまい、36両全車が廃車となりました。
ワイドドア車は1991年にデビューをしていますが、当時の印象はどのようなものだったのでしょうか。
巨大な扉が衝撃的だったワイドドア車
ワイドドア車が登場した当時、小田急にはまともな複々線区間が存在しませんでした。各駅停車の8両化が行われ、優等列車は10両で運行されていましたが、輸送力は既に限界に達しつつあり、少しでも輸送力を増やすための対策が急がれる状況となっていきます。
設備面での対応が複々線化の進展を待つしかない状況の中、車両側の対応で乗降をスムーズに行うことを狙い、当時増備されていた1000形の仕様を変更し、ワイドドア車が登場しました。
特徴である大きな側扉は、それまでの1.3mから一気に2mにまで広げられ、側面の半分近くを側扉が占めるというとんでもない車両が生まれることとなります。
登場当初のワイドドア車は本数が少なく、ラッシュ時の利用を考慮した運用が組まれていたこともあり、幼い私はあまり目にする機会がない車両でした。
乗車することはほとんどなかったと記憶していますが、収納が可能な座席の構造や、車内の見付がそれまでの車両と異なっていたことが強く印象に残っています。
座席の数が減ったことで、利用者からも不評だったといわれていますが、たった20両しか走っていない登場当初において、この車両を引き当てる不運は相当なものだったのかもしれません。
そんなワイドドア車ですが、1992年に4両ばかりが4編成も増備されたことで、見かける機会が一気に増えることとなります。
8両の新宿方に配置され、私自身も乗車する機会が増えたことで、印象に残る車両となっていきました。
ワイドドア車の印象
各駅停車に充当される編成が増えたことで、ワイドドア車に当たる機会は一気に増加しました。昔は2mのドアが全開していましたから、空いている時間帯の光景はなかなか違和感のあるものでした。
大きなドアは開閉に時間がかかっていたと記憶しており、動作も重々しいものだったと思います。
再開閉になってしまうと、ただでさえゆっくりと閉まる扉がゆっくりと開くため、他の車両では見られない面白さがありました。
しかし、個人的に強く印象に残っているのは、ドアよりも車内に設置されていた液晶画面で、近未来的な装備品にとてもわくわくさせられました。
1992年の増備車は全て液晶画面を採用していたため、当時はLEDの案内表示よりも目にする機会が多かったのです。
当時の液晶画面はまだまだ発展途上の段階で、経年劣化が激しく早々に撤去されてしまいましたが、その後改良されたものが3000形で採用され、現在は主流となっていることに、技術の進歩を感じずにはいられません。
その他にも、パワーウィンドウやドアチャイムといった他の車両にはない装備があり、これが未来の電車かといった印象でした。
前者は残念ながら定着しませんでしたが、後者は標準装備となっていきました。
ワイドドア車というと、どうしても大きなドアに目が向いてしまいますが、接客設備を中心に初採用となったものが意外に多く、試行錯誤の形式だったといえます。
登場した当初はそれらの装備品が目新しく、座れないことが多いという点を除けば、鉄道ファンとしては面白い車両でした。
おわりに
晩年は支線等を中心に活躍し、余生を送っていたワイドドア車。静かな引退となってしまいましたが、この時代まで改造を重ねつつ使用されたのは、ある意味奇跡的だったのかもしれませんね。
コメント
コメント一覧 (23)
ワタシダ
がしました
今はもう使っていませんが、都内からの帰りは決まって新宿から小田急線の急行を使っていましたが、下車駅が殆ど終点に近く、座って帰る事は必至で連結面の特等席を狙っていましたが、当時は30分に一本の間隔で、待っていた列車にワイドドア車が来ると連結面の座席は全て優先席なので、がっかりしたものでした。
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
昼間は専ら新宿~小田原間を赤丸急行で往復し、何と夕方上り1本は相武台前停車の急行に入っていました。
夜間も急行運用に入り、特に下り本厚木着19:10の急行小田原行に専ら使われ、この急行は本厚木で積み残しをよく起こす悪名高き急行でした。
当時のダイヤではその前は急行相模大野行相模大野から各停本厚木(10両)を本厚木で受けるのだが、10両の本厚木止まりを6両の急行で受けるのだから、当然輸送力は半分以下となり、乗り切れない客が多数出てもおかしくないでしょう。
そんな中ワイドドア車を当てる運用に入れたのです。
その列車にワイドドア車を当てたら、ものの見事に乗り切れてワイドドア車の威力を発揮し、本厚木での積み残しが無くなり、本厚木~伊勢原間の凄まじい混雑をさばいていました。
当然この列車での学生の尻押しのアルバイトも多数動員されており、ワイドドア車の効果と尻押しで見事に積み残しが解消されました。
私もこの列車はよく利用しましたが、ワイドドア車でも相当な混雑で、本厚木~伊勢原間の混雑は下手すれば当時の急行の最混雑区間の下北沢~成城学園前間かそれ以上になることも多かったです。
時代は変わり、同じ時間帯に10両の快速急行や急行、千代田線直通も設定されて、本厚木~伊勢原間は嘘のように混雑が劇的に緩和され、本厚木の積み残しを解消したワイドドア車は晩年は夜間の伊勢原始発の各停小田原行に細々と使われていました。
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
ワイドドアはダサいと思った幼少期
ワタシダ
がしました
多扉車と違って乗車位置を崩さず乗降スピードを上げる策をうつとはさすが小田急!って感心しましたが、当時の私も同じく浅はかでした…
ワタシダ
がしました
駅間が長いと、ニュースを流したりと地味にいいサービスだと思った次第です。
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
あと細かいところでは種別や行先の設定がダイヤル式の指令器から番号入力式になったところも目新しいところでした。
ワタシダ
がしました