小田原線の新百合ヶ丘から分岐し、唐木田までを結んでいる多摩線。
路線の距離が小田原線や江ノ島線と比べて短く、小田急の中ではのんびりとした雰囲気の路線です。
2000年代以降は輸送力の増強が続きましたが、近年は新型コロナウイルス感染症の影響もあり、減便される傾向となっています。
輸送力の増強が続き、明るい話題が多くなってきた20年ぐらい前の多摩線は、どのような路線だったのでしょうか。
近年もその傾向自体は変わらず、8000形の界磁チョッパ制御車や、1000形のワイドドア車が走っていたのは記憶に新しいところです。
1990年代に多摩線が6両化されて以降、多くの列車は2600形で運転されるようになりました。
他の形式も走っていましたが、見かける機会が多いのは2600形で、走っていない日は珍しかったように思います。
2000年代の前半も似たような状況でしたが、2600形の活躍する範囲が広がった影響で、4000形が走る機会が増えていました。
引退が近付く二つの形式が集まる路線、それが当時の多摩線のイメージです。
しかし、2600形の廃車が進むと、最新鋭の3000形が入線する機会が増加し、新旧の車両が共演する光景が展開されることとなります。
そんな当時の多摩線では、2002年に運行が開始された多摩急行が注目されていました。
長年に渡って線内の折り返し列車ばかりだった多摩線に、小田原線と直通運転を行う優等列車が走るようになったのですから、時代は変わったなと感じたものです。
それまでは入線することがなかった地下鉄の車両が走るようになり、車両のバリエーションは一気に増加することとなりました。
小田急からは1000形、千代田線からは6000系と06系が充当され、冴えない支線のイメージは払拭されたように思います。
黒川を出ると次は小田急永山で、駅間が長い区間というのがとても印象に残っています。
当時の駅には開業時の雰囲気が強く残っており、ホームの上屋は中央の階段付近だけ、駅舎自体もかなり質素なものでした。
小田急永山や小田急多摩センターはそこそこ栄えていましたが、それ以外の駅は周辺に空き地も目立つ状況で、発展が始まろうとしている時期でした。
駅前にマンション等が建設され、沿線の風景は変化していくこととなります。
はるひ野が開業し、駅のリニューアルが行われたことで、多摩線の雰囲気は一気に明るいものとなりました。
2000年代の多摩線は、前半と後半でかなり雰囲気が異なる路線だったようにも思います。
減便によって輸送力の調整が始まった現代は、沿線が成熟したということなのでしょうね。
路線の距離が小田原線や江ノ島線と比べて短く、小田急の中ではのんびりとした雰囲気の路線です。
2000年代以降は輸送力の増強が続きましたが、近年は新型コロナウイルス感染症の影響もあり、減便される傾向となっています。
輸送力の増強が続き、明るい話題が多くなってきた20年ぐらい前の多摩線は、どのような路線だったのでしょうか。
古い車両が集まる路線
小田急の多摩線といえば、古い車両が集まる路線というイメージをお持ちの方は多いのではないでしょうか。近年もその傾向自体は変わらず、8000形の界磁チョッパ制御車や、1000形のワイドドア車が走っていたのは記憶に新しいところです。
1990年代に多摩線が6両化されて以降、多くの列車は2600形で運転されるようになりました。
他の形式も走っていましたが、見かける機会が多いのは2600形で、走っていない日は珍しかったように思います。
2000年代の前半も似たような状況でしたが、2600形の活躍する範囲が広がった影響で、4000形が走る機会が増えていました。
引退が近付く二つの形式が集まる路線、それが当時の多摩線のイメージです。
しかし、2600形の廃車が進むと、最新鋭の3000形が入線する機会が増加し、新旧の車両が共演する光景が展開されることとなります。
そんな当時の多摩線では、2002年に運行が開始された多摩急行が注目されていました。
長年に渡って線内の折り返し列車ばかりだった多摩線に、小田原線と直通運転を行う優等列車が走るようになったのですから、時代は変わったなと感じたものです。
それまでは入線することがなかった地下鉄の車両が走るようになり、車両のバリエーションは一気に増加することとなりました。
小田急からは1000形、千代田線からは6000系と06系が充当され、冴えない支線のイメージは払拭されたように思います。
上屋が少しだけの飾り気のない駅
約20年前の多摩線では、はるひ野がまだ開業していませんでした。黒川を出ると次は小田急永山で、駅間が長い区間というのがとても印象に残っています。
当時の駅には開業時の雰囲気が強く残っており、ホームの上屋は中央の階段付近だけ、駅舎自体もかなり質素なものでした。
小田急永山や小田急多摩センターはそこそこ栄えていましたが、それ以外の駅は周辺に空き地も目立つ状況で、発展が始まろうとしている時期でした。
駅前にマンション等が建設され、沿線の風景は変化していくこととなります。
はるひ野が開業し、駅のリニューアルが行われたことで、多摩線の雰囲気は一気に明るいものとなりました。
2000年代の多摩線は、前半と後半でかなり雰囲気が異なる路線だったようにも思います。
おわりに
昔ながらの多摩線の雰囲気が残っていた最後の時期が、20年ぐらい前のことでした。減便によって輸送力の調整が始まった現代は、沿線が成熟したということなのでしょうね。
コメント
コメント一覧 (17)
これから20年、多摩線がどうなっていくのか気になります。
ワタシダ
がしました
まず千代田線は当初、小田急線とは喜多見で接続駅して、喜多見以東は大体世田谷街道の下に線路を作る計画でした。
この計画に、小田急が待ったをかけました。
なぜならばこのルートは、小田急のルートと非常に被っていたからでした。
かわりに小田急は、千代田線との接続駅は代々木上原にして、代々木上原~喜多見間は線増することでカバーする事を提案しました。
これが今の複々線の元の計画になりました。
が、現在の複々線は喜多見以東まで続いています。
それは次の多摩ニュータウン路線の計画に影響しています。
多摩ニュータウン路線の小田急側は当初、喜多見から分岐する予定でした。
しかしこのルートだと多摩川に新たに橋を架けなければならない上に、京王側からのルートと被るということで、代わりに新百合ヶ丘駅を新設し、そこから分岐することにしました。
ここで問題になるのが、千代田線計画でした。
当初千代田線は小田急線を喜多見まで複々線化して、以西は多摩ニュータウン路線に入る予定でした。
しかし、多摩ニュータウン路線は喜多見ではなくてもっと西の新百合ヶ丘を分岐点としました。
そのため小田急は、喜多見~新百合ヶ丘間も線増して、それに対応することを考えました。
これが、小田急の複々線化構想が本来は新百合ヶ丘までである理由です。
現在は、そもそもの計画が立てられたのが半世紀以上も前であり、当時の想定と現状とが乖離している問題、計画するのはバカでも出来るが費用は誰がどこから出すのか問題、いざ作った所で費用をペイできるのか問題、等のさまざまな問題があり、新百合ヶ丘までの複々線化は夢物語となってしまいましたね。
ワタシダ
がしました
そのため、京王の都営新宿線直通は、府中・聖蹟桜ヶ丘方面からのニーズも高いのに、ほぼ相模原線オンリー。小田急は複々線が完成するまでは、相模大野方面の輸送力確保が第一、とのエクスキューズで、千代田線直通は本厚木行きメインとなっていたが、梅ヶ丘~登戸の複々線化完成時に、やむを得ず?多摩急行として多摩線への直通運行を始めた、やに推察します。
現在、千代田線直通の多摩線乗り入れがなくなっているのは、国交省にどういう説明をしているか、把握していませんが、IC乗車券からの乗車実態データで、千代田線直通利用客は世田谷・狛江域の乗客の割合が高い、というのを提示し、理解を得る動きをしたのかも知れません。
ワタシダ
がしました
実現していたら、東京メトロと川崎市営地下鉄の車両が顔を合わす場面が見られたでしょう。
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
20年前の小田急というと、3000形がデビューして間もない時期であり、湘南急行や多摩急行といった多種多様な種別が登場するようになった時期でもありましたから、この頃からようやく多摩線も京王相模原線に負けじと多摩ニュータウンへのアクセス路線として本格的に成長し始めるようになったといえるでしょう。
そんな多摩線も運転体系の見直しで日中は再び各駅停車のみの路線に戻りましたが、京王相模原線とともにニュータウンアクセスに恥じない路線としての地位は今も変わらず、これからも相模原延伸など更なる成長と展開が期待されそうですね。
ワタシダ
がしました
そのお陰からか多摩線内各停でも小田原線内急行にできる利点が出たし、複々線化に併せて10両まで延伸した事は大きいでしょう。
更に多摩線は今後は相模原駅まで延伸が決まった状態になり、相模原駅北東部の米軍基地を無くせばJR相模原駅高架化され、立川駅や那覇新都心みたいに基地のなくても成長する街が出来そうで何よりですね。
町田市側は多摩モノレールの町田延伸も計画されていますが。
ワタシダ
がしました