戦前から週末温泉急行というノンストップ列車の運転を行い、それが発展することで形成されてきた小田急のロマンスカー。
現代では小田急を象徴する存在となっており、ブランド力の向上にも寄与しています。
戦時中に運行が休止となった週末温泉急行に代わり、戦後には新宿から小田原までをノンストップで走る特急の運転がスタートします。
この特急は復興整備車という車両を使用して運転されましたが、いったいどんな車両だったのでしょうか。
列車自体は好評だったものの、世の中はどんどん悪い方向へと進んでしまい、太平洋戦争の影響で運行は中止されてしまいました。
戦時中に他社と合併して大東急の一員となっていた小田急ですが、戦後になると再編成を求める声が社内で高まってきました。
様々な調整を経て、1948年6月1日に小田急は分離独立を果たしますが、その過程で井の頭線を失うことになったりと、全てが上手くいったわけではありませんでした。
分離独立後の収入は楽な状況ではなかったため、収入を増やす策としてノンストップ特急の運転が計画され、急ピッチで準備が進められていきます。
そして、約4ヶ月が経過した10月16日よりノンストップ特急の運転が開始され、ロマンスカーの発展へと繋がっていくこととなります。
新宿から小田原までは1時間40分もかかりましたが、特急料金を徴収する列車ということで、特別な整備をして運行されていた復興整備車が充当されることとなります。
戦時中の物資不足や酷使により、戦後間もない頃の鉄道車両は酷く傷んでいました。
小田急も例外ではなく、日々の運行さえも大変な状況でしたが、特定の車両に対して徹底的な整備を施し、復興整備車として走らせることとなります。
前面の上部には復興整備車と書かれたプレートが掲げられ、特急での使用時には座席に白いシーツがかけられており、スタンド式の灰皿も置かれていました。
座席はロングシートであり、車両自体も特急専用ではありませんでしたが、窓ガラスがしっかりと入ったピカピカな車両は、それだけでも贅沢な存在でした。
復興整備車には新しい車両である1600形が抜擢され、1800形等でも見られたようです。
現場の方々が不足する資材を必死にやり繰りし、大変な苦労の末に誕生した復興整備車は、ロマンスカーの誕生へと繋がる最初の一歩を飾る車両となりました。
車両の復興が進み、重点的に整備された車両という存在自体が、やがて過去のものとなりました。
現代では小田急を象徴する存在となっており、ブランド力の向上にも寄与しています。
戦時中に運行が休止となった週末温泉急行に代わり、戦後には新宿から小田原までをノンストップで走る特急の運転がスタートします。
この特急は復興整備車という車両を使用して運転されましたが、いったいどんな車両だったのでしょうか。
週末温泉急行からノンストップ特急へ
新宿から小田原までをノンストップで走る列車は、1935年に週末温泉急行としてスタートしました。列車自体は好評だったものの、世の中はどんどん悪い方向へと進んでしまい、太平洋戦争の影響で運行は中止されてしまいました。
戦時中に他社と合併して大東急の一員となっていた小田急ですが、戦後になると再編成を求める声が社内で高まってきました。
様々な調整を経て、1948年6月1日に小田急は分離独立を果たしますが、その過程で井の頭線を失うことになったりと、全てが上手くいったわけではありませんでした。
分離独立後の収入は楽な状況ではなかったため、収入を増やす策としてノンストップ特急の運転が計画され、急ピッチで準備が進められていきます。
そして、約4ヶ月が経過した10月16日よりノンストップ特急の運転が開始され、ロマンスカーの発展へと繋がっていくこととなります。
特急に使用された復興整備車
多くの期待を背負って運転を開始したノンストップ特急は、自由席の定員制とされました。新宿から小田原までは1時間40分もかかりましたが、特急料金を徴収する列車ということで、特別な整備をして運行されていた復興整備車が充当されることとなります。
戦時中の物資不足や酷使により、戦後間もない頃の鉄道車両は酷く傷んでいました。
小田急も例外ではなく、日々の運行さえも大変な状況でしたが、特定の車両に対して徹底的な整備を施し、復興整備車として走らせることとなります。
前面の上部には復興整備車と書かれたプレートが掲げられ、特急での使用時には座席に白いシーツがかけられており、スタンド式の灰皿も置かれていました。
座席はロングシートであり、車両自体も特急専用ではありませんでしたが、窓ガラスがしっかりと入ったピカピカな車両は、それだけでも贅沢な存在でした。
復興整備車には新しい車両である1600形が抜擢され、1800形等でも見られたようです。
現場の方々が不足する資材を必死にやり繰りし、大変な苦労の末に誕生した復興整備車は、ロマンスカーの誕生へと繋がる最初の一歩を飾る車両となりました。
おわりに
戦後の混乱期を乗り越えるべく、多くの期待を背負って登場した復興整備車。車両の復興が進み、重点的に整備された車両という存在自体が、やがて過去のものとなりました。
コメント
コメント一覧 (2)
復興整備車というのは、戦後の物資が不足していた時代に、各電車区や車庫あるいはその鉄道会社ごとに、「重点的に整備し、極力不足の無い車輌」を指定し、その編成や車輌を重点整備して走らせることにより、乗客の秩序を取り戻し、破壊を心理的にしにくくする目的で整備された車輌群のことをさします。
復興整備車という言い方も、電車区や鉄道ごとに「努力電車」、「整備電車」などというような言い方もしており、一定していません。しかし、窓ガラスに板を使わない、モケット張りの車輌はモケットの重点整備、ドアエンジンの完全化、電球の補充などを行っており、したがって復興整備車でない車輌は、それらが不完全のまま走っていたということです。
よって、特急に使用するために整備したのではありません(それは別に車内の整備をしています)。
復興整備車は中野電車区や三鷹電車区は2編成あったようですが、小田急では車庫を指定せず、1600形と1650形、クハ1315、1800の全編成を指定していたようですが、1600形でも、当時破損のため長期休車であったような車輌は指定されていません。
また「週末温泉特急」が正しい名称だったようですが、1800は動揺が激しいことと、高速走行させるとまだ線路を傷めるという理由から、復興整備車ではありましたが、特急には投入されませんでした(試運転のみ)。
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