登場から40年近くが経過しつつも、まだ多くの車両が現役で活躍を続ける小田急8000形。
少しずつ廃車は進んでいますが、しばらくは元気に活躍する姿を見ることができそうです。

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そんな8000形がデビューしたのは1980年代の前半ですが、その頃の小田急はどのような状況だったのでしょうか。

輸送力の増強に追われる小田急

ケイプアイボリーに塗られた車体に、ロイヤルブルーの帯を巻く最後の車両となった8000形は、1982年に製造が始まりました。
営業運転は1983年に開始され、8000形の増備によって古い車両が置き換えられていきます。

この時期の小田急は、箱根登山線に大型車の6両編成が乗り入れられるようになり、急行の10両化が進めやすくなっていました。
大型車の6両を必要とするシーンが増加し、8000形も登場は6両からとなっています。
2600形が他形式との併結を開始したのもこの頃で、6両と4両を併結した10両での運転を増やし、輸送力の増強が進められました。

輸送力増強の裏で役目を終えようとしていたのは、貨物列車と荷物電車です。
8000形が登場した直後には僅かながら残っていたものの、増備が進む頃にはどちらも廃止されていきました。

車両の大型化と冷房化

8000形が登場した頃の小田急では、その後のスタンダードとなる車両への統一に向けた、総仕上げが始まろうとしていました。
それは大型車への統一と冷房化率100%であり、8000形の増備もこの過程でのできごとでした。

当時の小田急では、2200形や2400形等を合わせ、150両ほどの中型車が残っていました。
非冷房車は250両近く走っており、乗車する車両によってサービスの水準には差がある状態で、新型車両が投入されることは今以上の意味を持っていたといえます。

8000形の増備過程では、2200形、2220形、2300形、2320形、2400形の5形式が廃車され、1000形の増備へと移行する頃には、大型化と冷房化はほぼ終わろうとしていました。
大型化と冷房化を一気に進め、車両の整理に貢献したのが8000形だったのです。

この時期はロマンスカーの増備にも小田急は積極的で、8000形に先行して7000形(LSE)が登場し、より一層華やかな時代へと突入しようとしていました。
限界状態の輸送力増強が少しずつ落ち着き、サービスの向上にも力を入れやすくなってきた時期だったといえそうです。

おわりに

大型車への統一を目指す過程で、短期間に集中して造られることとなった8000形。
時代が平成に変わった頃から、小田急の通勤型車両は長い安定期に入り、変化が少ない時期が続くこととなりました。