相模大野から江ノ島線内に入ると、駅名に「林間」と入る駅が三つ続きます。
これは小田急が戦前に計画都市を開発しようとした名残で、駅名を若干変更しつつも今日まで受け継がれています。

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以前にも取り上げた林間都市について、今回はどのようなものが考えられていたのかを中心にまとめてみたいと思います。

壮大な構想だった林間都市

1927年に小田急を開業させた創業者の利光鶴松氏は、江ノ島線内に都市を建設することを計画しました。
現在の田園調布である田園都市開発等に触発されたもので、現在の東林間から南林間にかけてが対象地域でした。

林間都市という名称は、付近一帯にカラマツの林が広がっていたために名付けられたものですが、開発が進んだ現代の姿を見ると、なかなか想像ができないものです。
開発計画に合わせ、開業前に予定されていた駅名も変更されており、中和田、公所、相模ヶ丘で予定されていたものが、それぞれ東林間都市、中央林間都市、南林間都市とされました。

実際に土地を買収し、江ノ島線の開業に合わせて開発が進められましたが、東京の都心部から遠すぎたことで苦戦しているうちに、日本は戦時体制へと傾いていきます。
林間都市計画は完成せずに頓挫し、1941年には駅名から都市も外されました。
計画では中央林間を中心地とする予定だったものの、結果的には南林間が栄えて急行停車駅となり、その後東急の田園都市線が開業したことで立場が逆転し、現在は本来の姿に少し近付いたともいえそうです。

どのような都市を目指していたのか

実際に開発が進められた林間都市は、どのような都市を目指していたのでしょうか。
宅地の分譲が行われた南林間には放射状の道路があり、当時を今に伝える貴重な存在となっています。
その他にも、現在の相模カンツリー倶楽部や聖セシリアが名残のようです。

林間都市が目指していたのは、スポーツ施設を中核とする住宅地でした。
現代にそのような都市があれば流行りそうですが、時代を先取りしすぎてしまったようにも感じます。
中央林間から南林間にかけて、野球場、相撲場、ラグビー場、ゴルフ場、テニスコート等を設置し、スポーツ都市とする計画でした。

豊かな松林は活かし、高級住宅街を展開しつつ文化施設や学校を設ける予定で、実現していたらどうなっていたのでしょうか。
東林間の周辺には工場を誘致する計画だったようで、職住近接も想定していたのかもしれません。

現在は新宿や渋谷に出やすい地域となりましたが、当時としては都心部から遠く、壮大な計画は苦戦を強いられます。
そうこうしているうちに軍都計画が進み、日本は戦争の時代へと突入し、平和的なスポーツ都市は皮肉な方向へと舵を切ることとなりました。

おわりに

時代背景が発展を許さず、頓挫してしまった小田急の林間都市計画。
今の時代にスポーツ都市があれば、健康志向の方やスポーツ観戦が趣味の方に愛される街になったのかもしれません。