全ての駅で構内の通路が立体化され、構内踏切が消滅している小田急線。
現在は遺構すらもほとんどなくなっており、遠い過去の設備となりつつあります。
小田急で最後まで構内踏切が残っていたのは足柄ですが、他にはどの駅に遅くまで残っていたのでしょうか。
足柄は小田急で最後まで構内踏切が残った駅であり、跨線橋の完成により役目を終えました。
構内踏切の遺構があるのは上りホームの新宿方で、やや不自然な階段があります。
ホームの端に柵が設置されており、階段に足を踏み入れることはできませんが、かつてその先には遮断機があったことになります。
下りホームには改札口とホームを繋ぐ階段があり、これも構内踏切の名残といえそうですが、綺麗にされており面影はありません。
ホームの延長等によりこういった遺構は姿を消しており、後年まで構内踏切が残ったことが幸いしたといえそうです。
これが小田急で最後の構内踏切となりますが、それ以前の状況はどうなっていたのでしょうか。
1976年度末の状況を確認してみると、富水、螢田、足柄の3駅に構内踏切が残っていたようです。
小田急から構内踏切が消滅する10年以上前の時点で、既に相当少なくなっていたことが分かります。
さらに、1981年度末の時点でも足柄のみとなっていたようで、富水と螢田の廃止時期は不明なものの、足柄だけが遅くまで残っていたことになります。
立体化後は橋上駅舎や跨線橋に姿を変え、いつしかそれが当たり前の世の中となりました。
現在は遺構すらもほとんどなくなっており、遠い過去の設備となりつつあります。
小田急で最後まで構内踏切が残っていたのは足柄ですが、他にはどの駅に遅くまで残っていたのでしょうか。
足柄駅に残る構内踏切の遺構
終点の小田原から一駅の位置にある足柄では、構内踏切の遺構を見ることができます。足柄は小田急で最後まで構内踏切が残った駅であり、跨線橋の完成により役目を終えました。
構内踏切の遺構があるのは上りホームの新宿方で、やや不自然な階段があります。
ホームの端に柵が設置されており、階段に足を踏み入れることはできませんが、かつてその先には遮断機があったことになります。
下りホームには改札口とホームを繋ぐ階段があり、これも構内踏切の名残といえそうですが、綺麗にされており面影はありません。
ホームの延長等によりこういった遺構は姿を消しており、後年まで構内踏切が残ったことが幸いしたといえそうです。
1976年度末の時点で残っていた構内踏切
足柄に残っていた構内踏切は、1987年10月20日に跨線橋の使用が開始されたことで廃止されました。これが小田急で最後の構内踏切となりますが、それ以前の状況はどうなっていたのでしょうか。
1976年度末の状況を確認してみると、富水、螢田、足柄の3駅に構内踏切が残っていたようです。
小田急から構内踏切が消滅する10年以上前の時点で、既に相当少なくなっていたことが分かります。
さらに、1981年度末の時点でも足柄のみとなっていたようで、富水と螢田の廃止時期は不明なものの、足柄だけが遅くまで残っていたことになります。
おわりに
安全性を高めることを目的として、次々に立体化されて姿を消した小田急の構内踏切。立体化後は橋上駅舎や跨線橋に姿を変え、いつしかそれが当たり前の世の中となりました。
コメント
コメント一覧 (7)
その他、構内踏切があった駅としては、経堂駅も挙げられるのではないでしょうか。
経堂駅はかつては経堂工場線の2線、工場移転後は1線の留置線が地下道につながる通路を通っており、早朝や夕方には出庫・入庫の電車が通過し、その間は人々の通行が遮断されていました。これもれっきとした構内踏切であると思います。
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
構内踏切ですが、小田急に存在していたことは初めて知りました。京王は浜田山駅が最後まで残り、東急は目蒲線の現・多摩川線区間や池上線で多く見られました(池上線では池上駅が最後まで構内踏切が残った)。しかしながら構内踏切自体も安全上やバリアフリー化に伴い、減少してしまいました。
都内で残っているのは東急大井町線等々力(これは京王線上北沢駅が地下駅舎になる前と印象が似ている)、世田谷線下高井戸駅(臨時改札口)、東武亀戸線亀戸水神、東あずま、京成金町線柴又駅、西武多摩川線新小金井・白糸台駅といったところです(まだまだあると思いますが)。
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました
ワタシダ
がしました