多摩ニュータウンの中で最初に入居が始まり、小田急と京王の駅が設けられている諏訪・永山地区。
両線の駅は隣接して並んでいますが、駅名は小田急永山と京王永山になっており、会社名が頭に付けられています。

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それぞれの駅は1974年に開業しましたが、それまでの諏訪・永山地区は「陸の孤島」と呼ばれていました。
なぜそのように呼ばれてしまったのか、鉄道が開業する前夜を振り返ってみたいと思います。

1974年に開業した小田急と京王の永山駅

高架駅が並ぶ小田急と京王の永山駅ですが、どちらも1974年に開業しました。
小田急が6月1日に、少し遅れた10月18日に京王が開業しますが、小田急が永山までの暫定開業だったのに対して、京王は最初から多摩センターまで開業しています。

1975年に小田急は多摩センターまで延伸し、永山は中間駅となりましたが、当初の多摩線は利用者が少ない状況が続きました。
開業当初は4両で運行された列車は、少しして2両に減車されてしまいましたが、それでも十分といえる状況だったのです。
本線に直通する列車がほとんどない小田急に対して、京王は開業時から直通列車を走らせており、利用者が少ない状況に拍車をかけていました。

一方で、鉄道の開業自体は住民に待ち望まれていたものでした。
なぜならば、諏訪・永山地区は陸の孤島と呼ばれ、ニュータウンであるにもかかわらず鉄道が通っていなかったのです。

陸の孤島と呼ばれた諏訪・永山地区

諏訪・永山地区は、多摩ニュータウンで最初に入居が行われました。
当時の東京は住宅不足に陥っており、それを団地の大量供給で乗り切ろうとしたもので、1971年から入居が開始されています。

小田急と京王の路線が開業したのは1974年のことであり、鉄道が近くを走っていない状態で入居が始まったことになります。
鉄道が開業する前は人口が少なかったのかというと、必ずしもそんなことはなく、1974年の時点で多摩ニュータウンの人口は3万人に達しており、人はいるのに鉄道がないという状態でした。

このような状況の中で、住民はどうやって暮らしていたのかというと、バス等で聖蹟桜ヶ丘や鶴川に向かい、そこから新宿方面を目指していました。
しかし、道路は渋滞してしまう状況で、鉄道の開業以外に抜本的な解決策はありませんでした。

鉄道の開業が遅れた背景には、多摩ニュータウン内で不動産事業ができないことで、新線を建設しても採算が合わないことが予想されたという事情があります。
そこで、P線方式という資金助成の制度が創設され、小田急と京王の開業へと繋がりました。
こうして陸の孤島は解消しますが、小田急が小田原線との直通列車を走らせられるようになるのは、開業からかなり先のことになるのでした。

おわりに

小田急が永山までを暫定開業させたのは、少しでも早く陸の孤島を解消するためだったのでしょうか。
結果として様々な反省点もある多摩ニュータウンですが、社会が未成熟な状態にある中で、必死にそれを解決しようと奔走した方々の姿があったのかもしれませんね。