百合丘団地の入居が開始されるのに合わせ、1960年に開業した小田急の百合ヶ丘駅。
開業前は読売ランド前から柿生まで駅がなく、百合ヶ丘付近は緑で溢れていましたが、その後はベッドタウンとして発展することになりました。

隣に新百合ヶ丘ができたことで、主要駅としての役割はそちらになりましたが、百合ヶ丘にはかつて待避線を設置するためのスペースが用意されていました。
ホームの延長や上屋の増設により、そのような痕跡はほとんど分からなくなっていますが、新宿方には何かを想像させる不思議な架線柱があります。

待避線の設置が考慮されていた百合ヶ丘駅

戦後生まれの駅である百合ヶ丘は、1960年3月25日に開業しました。
当時は大型車の6両でさえ走っていない時代で、ホームは中型車の6両が停まれる長さとされましたが、後の延長により現在は10両分となっています。

百合ヶ丘のホームは掘割部に設けられており、改札口は地面と同じ高さにあることが特徴です。
ホームの外側は法面となっていますが、やや余裕のある状態とされており、将来的に待避線を設けることが考慮されていました。
開業当時は隣の駅が柿生であり、そちらにも待避線がある状態でしたが、どのような使い方を想定していたのかについても気になるところです。

川崎市の拠点駅として期待された時期があったものの、多摩線の開業に合わせて新百合ヶ丘が設けられたため、準急以下の列車が停車する住宅地の駅として発展してきました。
結果的に待避線が設けられることはありませんでしたが、やや広いスペースが開業当時の想定を今に伝えています。

幅が広い不思議な架線柱

中型車の6両が停まれる長さのホームが設けられた百合ヶ丘ですが、準急を8両で運転するのに合わせて、1966年までに早くもホームの延長が行われています。
この時はホームを小田原方に延長していますが、後に新宿方にも2両分を追加し、10両が停車できるようになりました。

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さて、新宿方にはこの写真のような架線柱があります。
周辺にある架線柱よりも新しく、よく見ると幅が広いことにも気付きます。
待避線が設けられていたとしたら、この架線柱の少し先にポイントがあったのではないかと思わせる幅ですが、開業時からこうなっていたのでしょうか。

気になって調べてみたところ、小田原方にホームを延長した頃には狭い架線柱が使われており、その後に交換されていることが分かりました。
何らかの理由で架線柱を交換する際に、将来的な可能性を考慮して幅を広げた可能性が高そうですが、ホームをさらに延長したことで、待避線の可能性はなくなったものと思われます。

1974年に新百合ヶ丘が開業しているため、その計画が具体化した段階で、待避線を設ける想定はなくなったと考えられます。
ホームを8両分に延長した少し後ぐらいのタイミングで、架線柱の交換を行った可能性が高そうですが、いつまで待避線を設置する想定が残っていたのかが気になるところですね。

おわりに

結果的に待避線は設けられず、拠点駅としての役割は新百合ヶ丘が担うことになりました。
もし百合ヶ丘が拠点駅として整備されていたら、今頃はどのような駅になっていたのでしょうか。