小田原から強羅までを結ぶ鉄道線を中心に、ケーブルカーやロープウェイも運行している箱根登山鉄道。
日本では最もきつい勾配を走る粘着式鉄道で、箱根の山を登る電車として親しまれています。

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現在は小田原から箱根湯本までが小田急の車両によって運行され、鉄道線は箱根湯本を境に別路線のようになっていますが、元々の鉄道線は箱根湯本から強羅までを結ぶ路線でした。
小田原市内線という路面電車が昔は走っており、それが小田原から箱根湯本を繋いでいたためですが、いったいどのような路線だったのでしょうか。

1956年に廃止された小田原市内線

箱根登山鉄道では、1956年まで小田原市内線という路面電車を運行していました。
区間は小田原から箱根板橋までの2.4kmで、合わせて11の停留所が設けられており、短い区間を走る路面電車でした。

線路は国道1号線上を通っており、単線の路線が民家に近い位置を走っていたそうです。
短い区間ながら市民の足として親しまれますが、並行して路線バスも走っていたことで、その存在意義は徐々になくなっていきました。

モータリゼーションの訪れにより、国道1号線は渋滞を起こすようになりますが、小田原市内線も原因の一つとしてあげられるようになります。
国道1号線の改修工事を行うにあたり、神奈川県からの廃止要請に応えることとなり、1956年5月31日に最終運行日を迎えました。

翌日の6月1日をもって小田原市内線は廃止され、慣れ親しまれた路面電車は姿を消しました。
東京から路面電車が消えていったように、小田原市内線も同じ道を歩むのは必然だったのかもしれません。

箱根登山鉄道の変遷

僅か2.4kmしかなかった小田原市内線ですが、それは晩年のことであり、元々はもっと長い路線でした。
箱根登山鉄道が現在の路線網となっていく過程で、最後に残されたのが小田原市内線だったことになります。

東海道本線が国府津から現在の御殿場線に抜けていた時代、国府津から小田原を通り、箱根湯本までを結ぶ路線として、1888年に小田原馬車鉄道が開業しました。
社名が示す通り、馬車鉄道が箱根登山鉄道の始まりでした。
その後、小田原電気鉄道に社名を変更し、1900年には全線が電化されることとなります。

箱根の山を登る電車が走り出したのは1919年で、箱根湯本から強羅を結ぶルートが鉄道線として加わり、ここでようやく箱根登山鉄道らしくなってきます。
1920年に東海道線の前身である熱海線が開業したことで、並行する国府津から小田原までの区間は廃止となり、小田原電気鉄道の路線網は縮小します。
しかし、1921年にはケーブルカーが開業しており、路線の性格は小田原から箱根への輸送に変化していきました。

昭和に入ると、1927年には小田急が新宿から小田原まで走るようになり、1935年には鉄道線の小田原から箱根湯本までが開業、馬車鉄道からの流れである小田原市内線は、箱根板橋から箱根湯本までを廃止し、前述の2.4kmだけが残ることとなりました。

おわりに

国府津から箱根湯本までを結ぶ馬車鉄道として開業した路線は、箱根の観光鉄道へと姿を変え、現在まで続いています。
小田原から箱根湯本までは小田急の路線のようになっていますが、元々は箱根湯本で区切られていたことを考えると、元に戻ったといえるのかもしれませんね。