複々線化時に高架化され、相対式ホームの2面4線となった小田急の梅ヶ丘駅。
地上に駅があった頃は、待避線等のない一般的な2面2線の配置で、各駅停車しか停まらない駅としては、標準的な姿をしていました。

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そんな梅ヶ丘ですが、過去に島式ホームだった時期があり、後に相対式へと改められた経緯があります。
小田急では珍しかった島式ホームは、なぜ採用されたのでしょうか。

島式ホームだった時期がある梅ヶ丘駅

梅ヶ丘は小田原線の開業時にはなかった駅で、1934年4月1日に設置されました。
現在は梅の木が沢山ある地域となっていますが、それらは後年に植えられたものであり、面白い歴史といえるでしょう。

開業時から優等列車は停まらない駅でしたが、2004年に区間準急が登場した際には停車駅となり、2016年の廃止時まで続きました。
区間準急が特殊なケースではあるものの、基本的には各駅停車のみが停まる普通の中間駅で、待避線等も設けられたことはありません。
しかし、開業時の配線はその後と異なるもので、高速志向の小田急では珍しく、1面2線の島式ホームを備えており、かなり特殊な存在となっていました。

現在のように10両編成が走る時代ではないため、ホーム自体は短いものでしたが、駅の前後がカーブしている状態は珍しく、通過列車は減速する必要もあったものと思われます。
1962年には相対式ホームに改良され、約28年の歴史が終わりました。

梅ヶ丘駅はなぜ島式ホームだったのか

通過時の減速を避けるため、線路を直線で通せる相対式ホームが採用された小田急ですが、なぜ梅ヶ丘は島式ホームとされたのでしょうか。
背景には梅ヶ丘の駅が設置された理由が関係しており、そのあたりから振り返ってみましょう。

後から設置された梅ヶ丘は、東京山手急行電鉄という路線と交差し、乗換駅となることが計画されていました。
東京山手急行電鉄は、山手線の外側に新たな環状線を建設しようとしたもので、大井町を起点に多くの鉄道路線と交差しつつ、東陽町付近に至る計画でした。

実際に免許が交付されたものの、当時の日本は不景気の真っ只中という状況であり、建設を進めることは現実的に困難で、後に小田急の創業者である利光鶴松氏の傘下となります。
しかし、開業したばかりの小田急でさえ経営が苦しい時期で、このような大規模な路線を建設するだけの体力はなく、最終的には全ての免許を失効して未成線となりました。

話題を梅ヶ丘に戻すと、この未成線と小田急は乗り換えができる想定であり、駅はそれを見越した構造とされました。
小田急の上を通る予定だった路線に対して、上下線で共用する乗り換え用の階段を設置する予定で、梅ヶ丘は島式ホームで造られたことになります。
計画された路線が開業せず、結果的に梅ヶ丘は無意味な島式ホームを備える状態となったため、後に相対式ホームへと改良されることになりました。

おわりに

同様の理由で島式ホームになった駅としては、地上時代の下北沢がありました。
井の頭線の開業により、こちらは想定どおりの状態となりましたが、利用者の増加でホームの容量が足りなくなったため、後にホームを外側に増設する結果となってしまいました。