複数の編成を繋ぐ列車が少なくなり、先頭から最後尾までの通り抜けが可能となってきた小田急。
各車両の連結部には扉が設けられ、居住性についても考慮されています。
今では当たり前となった連結部の扉ですが、古い車両ではないことが当たり前の時代がありました。
なぜ昔は連結部に扉がなかったのでしょうか。
一時期は在籍する全ての形式がその状態となり、その当時においては標準的な仕様だったといえます。

きちんとした写真を撮っていなかったことを悔やみますが、左側に少し見えているような状態となっていました。
車両間は幌で繋がれているものの、それを仕切る扉はない状態で、連結部から発生する騒音もかなりありました。
扉がない状態が基本ではあったものの、後に編成の中間地点にだけ、両開きの細い2枚の扉が設けられるようになりました。
4000形以外は、6両にのみ扉が設けられており、編成が長くなることで吹き抜ける風を防止する意図だったように記憶しています。
扉が標準装備となったのは8000形からで、それ以降に登場した車両は全ての貫通路に設けられるようになりました。
他社では扉が片側にしかないといったケースもありますが、小田急は全車両に装備することを基本としており、通り抜ける際には少し手間がかかるようになっています。
それは貫通路自体の幅が広かったことで、妻面の半分ほどの面積が開口部となっていました。
このような貫通路は、阪急の920系が初めて採用したといわれ、隣の車両との一体感を生むことで、車内を広く見せる効果を狙っていました。
幅が広い貫通路はその後他の私鉄にも広まり、小田急は1949年に登場した1900形が採用し、その後の車両にも波及していきます。
車両自体が小さく、編成の単位が2両や3両といった時代において、広い幅の貫通路は車内を広く見せるのに効果的だったといえます。
しかし、連結部からの騒音が最大化されるという点や、編成が長くなったことによる風の吹き抜けが問題視されるようになります。
風の問題は、一部の車両に貫通扉を設置したことにも繋がりますが、冷房車が当たり前の時代になってくると、冷気が逃げることも課題となってきました。
8000形で扉が設置されたのは、これらの課題を解決するためと考えられ、貫通路の幅も狭くなりました。
扉を設けることで保安度も向上しており、騒音についてもかなり抑えられるようになっています。
貫通路の幅を狭くしたのは、扉を1枚で済ますためと考えられ、8000形から一気に流れが変わったといえそうです。
5000形ではガラスの面積を広くすることで、車内を広く見せる工夫がされるようになっており、昔とは違ったアプローチが行われています。
各車両の連結部には扉が設けられ、居住性についても考慮されています。
今では当たり前となった連結部の扉ですが、古い車両ではないことが当たり前の時代がありました。
なぜ昔は連結部に扉がなかったのでしょうか。
連結部に扉がなかった小田急の車両
既に懐かしい車両ばかりとなってきましたが、かつて小田急を走っていた通勤型車両では、連結部の扉がないことが基本でした。一時期は在籍する全ての形式がその状態となり、その当時においては標準的な仕様だったといえます。

きちんとした写真を撮っていなかったことを悔やみますが、左側に少し見えているような状態となっていました。
車両間は幌で繋がれているものの、それを仕切る扉はない状態で、連結部から発生する騒音もかなりありました。
扉がない状態が基本ではあったものの、後に編成の中間地点にだけ、両開きの細い2枚の扉が設けられるようになりました。
4000形以外は、6両にのみ扉が設けられており、編成が長くなることで吹き抜ける風を防止する意図だったように記憶しています。
扉が標準装備となったのは8000形からで、それ以降に登場した車両は全ての貫通路に設けられるようになりました。
他社では扉が片側にしかないといったケースもありますが、小田急は全車両に装備することを基本としており、通り抜ける際には少し手間がかかるようになっています。
連結部に扉がなかった理由
ないことが当たり前だった連結部の扉ですが、もう一つ今とは違う点があります。それは貫通路自体の幅が広かったことで、妻面の半分ほどの面積が開口部となっていました。
このような貫通路は、阪急の920系が初めて採用したといわれ、隣の車両との一体感を生むことで、車内を広く見せる効果を狙っていました。
幅が広い貫通路はその後他の私鉄にも広まり、小田急は1949年に登場した1900形が採用し、その後の車両にも波及していきます。
車両自体が小さく、編成の単位が2両や3両といった時代において、広い幅の貫通路は車内を広く見せるのに効果的だったといえます。
しかし、連結部からの騒音が最大化されるという点や、編成が長くなったことによる風の吹き抜けが問題視されるようになります。
風の問題は、一部の車両に貫通扉を設置したことにも繋がりますが、冷房車が当たり前の時代になってくると、冷気が逃げることも課題となってきました。
8000形で扉が設置されたのは、これらの課題を解決するためと考えられ、貫通路の幅も狭くなりました。
扉を設けることで保安度も向上しており、騒音についてもかなり抑えられるようになっています。
貫通路の幅を狭くしたのは、扉を1枚で済ますためと考えられ、8000形から一気に流れが変わったといえそうです。
おわりに
車内を広く見せるために扉がなかった連結部でしたが、それによって生じる問題点を解消するため、扉がある狭い貫通路へと変わっていきました。5000形ではガラスの面積を広くすることで、車内を広く見せる工夫がされるようになっており、昔とは違ったアプローチが行われています。
コメント
コメント一覧 (24)
2600形は現在の号車で言えば3号車の新宿寄り(6両ならデハ2800番台)に設置されており、其処だけHゴムのはめ殺し窓になっていて、一発で貫通扉の設置有無が判断可能でした。
同様に連結面の窓がHゴムになって居たのが2200系と言われる車両、全車がこの形状になっていました。
ワタシダ
が
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ワタシダ
が
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ワタシダ
が
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ワタシダ
が
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吹き抜ける風より、扉を強く閉めるバターン!!という音と振動の方が鬱陶しい。
それと扉に寄り掛かるのを排除できるし。
韓国の地下鉄放火事件以降、貫通扉は設置必須になったそうで理解はできるが残念。
ワタシダ
が
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ワタシダ
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連結部分から落ちたとしか考えられないという、やや曖昧な結論だったように覚えているんだけど、検索しても出てこない。
ワタシダ
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いずれも後に撤去されますが、戸袋部分はフタがされてそのまま残っていました。そのためクハ1850の妻窓は開閉出来なかったのですよ。秩父鉄道に譲渡されてから、再度ステンレス製の両開き貫通ドアが付けられています。
広幅貫通路自体は、東横線と小田原線向け(計画のみ)に作られ、戦災により急遽井の頭線に振り向けられた東急(予定)デハ3550形→デハ1700形と、その相手になる予定だったクハ3650形(→デハ3650形)が、一応小田急に少しは関連する車輌として最初かと思われます。その後新生小田急独立後1900系が作られるわけです。小田急クハ1661(→クハ1871を経てクハ1861)も、連結面側が広幅貫通路を装備しており、デハ1600と連結する関係で締め切りで使い、その後デハ1821(→1811)と組む際にその貫通路をホロでつないでいます。
ワタシダ
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ったというのは、京王電車でも当てはまりますね。
初代5000系までがそうでした。6000系から狭く
なり、扉も付きました。東武電車であれば、
8000系・5000系列までが 幅広の連結面でしたが、
幅広に対応した両開き扉が設けられる車両も出ま
した。小田急 初代5000系列と共通していますね。
一方で、営団6000・7000系の様な、キノコ
みたいな幅広を踏襲している会社もあります。
赤電で有名な 遠州鉄道、1000・2000形です。
今はなき30形の伝統を 引き継いでいます。
2両固定編成の短い電車内を 車掌さんが、無人駅
の多い各駅で 乗車券の確認や回収を行うため、
編成の前へ後へと 行き来します。車内の安全確認
や、乗務員の移動を、容易にするための工夫なの
かもしれませんね。
ワタシダ
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扉が無い場合、ベニア板やブルーシートで覆ってるのを見る事ありますがあまり良い方法とは思えません
ワタシダ
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ワタシダ
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一長一短ですね。
ワタシダ
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その頃の小田急は、特急車(SSE・NSE)にも連結部の扉はなかったような。
ワタシダ
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日本は家屋もそうですが、冬の寒さ対策よりも夏の湿気対策を優先しています。
一方で、隣の朝鮮半島の伝統家屋は、冬の寒さ対策を優先しています。
9000形はちょっとさておき、設計時から冷房が標準搭載されて登場したのは8000形だと思いますから、その8000形ですべての連結部に扉がついたと考えれば、色々と納得ができます。
ワタシダ
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強烈な印象を残したと個人的には思っています。
ワタシダ
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安全上設置したのだろうが、なぜ5200だけだったのか、何であんな遅い設置進捗だったのか、今でも謎
ワタシダ
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リニア地下鉄含めアルミ車は、ガラス貫通扉が多い印象です。
ワタシダ
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現在では冷房車の普及や火災対策の強化から貫通路は扉付きが基本となり、隣の車両への冷気逃げ出しのみならず火災の燃え移りを防ぐ役割を担っとります。そのため幅広の貫通路は廃車や改造で数を減らし、今では希少な存在になりつつあるようです。また小田急ではかつて車両間貫通路の扉にドアストッパーが設置されとりましたが、これも火災対策から後年撤去及び省略されるようになったそうです。
ワタシダ
が
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