8000形が西武に譲渡されることが決まり、久々に他社で活用される小田急の通勤型車両。
長く通勤型車両の譲渡がなかった小田急ですが、前回の事例は1984年に引退した2200系列までさかのぼります。
富士急行(現在の富士山麓電気鉄道)と新潟交通(鉄道路線は1999年に廃止)に譲渡されて活躍した2200系列ですが、どちらも1990年代に廃車されてしまいました。
新潟交通は路線自体も廃止されていますが、富士急行に譲渡された車両は、何を理由に置き換えられたのでしょうか。
前面のデザインを見れば分かるとおり、5000系と5100系を譲り受けて改造したもので、台車やモーターは営団地下鉄の3000系から流用されました。
京王時代とは形式が変わり、富士急行では1000形と1200形を名乗ることとなりますが、この車両が小田急の2200系列を置き換える役割を担っていました。
多摩線と相模原線で並走する機会もあった両形式は、違う路線で短期間ながら共演していたことになります。
富士急行で活躍した小田急の2200系列は、昭和57年に導入が開始されたことにちなんで、5700形とされました。
最終的に16両が移籍し、全車両が5700形とされていますが、小田急時代の形式は多岐に渡っており、2200形、2220形、2300形、2320形の4形式が混ざっています。
当然のことながら外見のバリエーションは豊富で、在籍する車両のほとんどが5700形になったこともあり、この時期の富士急行は小田急博物館のような状態でした。
移籍から10年程度での廃車開始だったことになりますが、少し早いようにも感じます。
小田急の2200系列は、1954年から1959年にかけて造られ、富士急行に移籍した時点では製造から30年に達していませんでした。
対する京王の5000系列は、1963年から1969年にかけて造られており、移籍する時点で製造から30年が経過したところであり、譲渡時の経過年数としてはどちらも似たようなものといえます。
京王の車両は現在も一部が現役であり、製造から50年以上を経過していることを考えると、小田急からの譲渡車であった5700形は、早い引退だったといえるでしょう。
5700形の置き換えが開始された背景には、地方私鉄でも徐々に広がりつつあった冷房の存在があげられます。
冷房が搭載されていなかった5700形は、急速に時代に合わない車両となりつつありました。
引退が始まる時点では車体の老朽化も進んでおり、外見からもそれは明らかでした。
小田急時代に大きな更新は行われておらず、腐食対策も十分ではない時代の車両であり、手を入れるより置き換えたほうが得策という判断だったのでしょう。
この時期の富士急行では、ATSの導入も同時に進められており、そういった面でも車両の置き換えには適した時期だったのかもしれません。
譲渡に際して、車内の更新等が京王重機整備で行われており、車両の状態がよかった面も影響しているのでしょうね。
長く通勤型車両の譲渡がなかった小田急ですが、前回の事例は1984年に引退した2200系列までさかのぼります。
富士急行(現在の富士山麓電気鉄道)と新潟交通(鉄道路線は1999年に廃止)に譲渡されて活躍した2200系列ですが、どちらも1990年代に廃車されてしまいました。
新潟交通は路線自体も廃止されていますが、富士急行に譲渡された車両は、何を理由に置き換えられたのでしょうか。
2200系列の4形式が譲渡された富士急行
現在はJR東日本から移籍した車両が多く活躍する路線ですが、その中に僅かながら元京王の車両が混ざっています。前面のデザインを見れば分かるとおり、5000系と5100系を譲り受けて改造したもので、台車やモーターは営団地下鉄の3000系から流用されました。
京王時代とは形式が変わり、富士急行では1000形と1200形を名乗ることとなりますが、この車両が小田急の2200系列を置き換える役割を担っていました。
多摩線と相模原線で並走する機会もあった両形式は、違う路線で短期間ながら共演していたことになります。
富士急行で活躍した小田急の2200系列は、昭和57年に導入が開始されたことにちなんで、5700形とされました。
最終的に16両が移籍し、全車両が5700形とされていますが、小田急時代の形式は多岐に渡っており、2200形、2220形、2300形、2320形の4形式が混ざっています。
当然のことながら外見のバリエーションは豊富で、在籍する車両のほとんどが5700形になったこともあり、この時期の富士急行は小田急博物館のような状態でした。
5700形はなぜ置き換えられたのか
小田急からの引退後、富士急行で再起を果たした2200系列でしたが、1993年から廃車が開始されました。移籍から10年程度での廃車開始だったことになりますが、少し早いようにも感じます。
小田急の2200系列は、1954年から1959年にかけて造られ、富士急行に移籍した時点では製造から30年に達していませんでした。
対する京王の5000系列は、1963年から1969年にかけて造られており、移籍する時点で製造から30年が経過したところであり、譲渡時の経過年数としてはどちらも似たようなものといえます。
京王の車両は現在も一部が現役であり、製造から50年以上を経過していることを考えると、小田急からの譲渡車であった5700形は、早い引退だったといえるでしょう。
5700形の置き換えが開始された背景には、地方私鉄でも徐々に広がりつつあった冷房の存在があげられます。
冷房が搭載されていなかった5700形は、急速に時代に合わない車両となりつつありました。
引退が始まる時点では車体の老朽化も進んでおり、外見からもそれは明らかでした。
小田急時代に大きな更新は行われておらず、腐食対策も十分ではない時代の車両であり、手を入れるより置き換えたほうが得策という判断だったのでしょう。
この時期の富士急行では、ATSの導入も同時に進められており、そういった面でも車両の置き換えには適した時期だったのかもしれません。
おわりに
僅かに10年程度で廃車が始まった5700形ですが、元京王の車両は長く活躍を続けることとなります。譲渡に際して、車内の更新等が京王重機整備で行われており、車両の状態がよかった面も影響しているのでしょうね。
コメント
コメント一覧 (9)
新型車として入ってきた元京王車は、新車ではないけど立派でした。特急が走り出したのもこの置き換えからですね。クロスシートにモニタがついていたはずです。
ワタシダ
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子供の頃から何度も何度も見たり乗ったりしていたので、色は変わっていても、窓の配置などから、直感で一瞬にしてわかりました。正面に回って顔を確認して、ああやっぱりなって。
昔の友達に再会したような懐かしさを感じました。
ワタシダ
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富士急色に塗装され、
小田急線内で試運転も行いました。
担当したかったなー。
甲種輸送は早朝の貨物行路で
デキ×2に引かれて旅立ちました。
ワタシダ
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富士急には昭和時代初期、下部~河口湖~富士吉田~御殿場を結ぶ新路線を計画していました。
実現していたら、小田急~JR東海~富士急行の三社直通列車が運行されていたかもしれません。
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ワタシダ
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2200形グループ以前の通勤型車両では1800形が秩父鉄道に譲渡されたことがある他(名鉄からの譲受車も含む)、開業時からの1100形も地方私鉄に譲渡された実績があります。いずれも譲渡先にて他の車両に置き換わったため現在は引退済みで、今回のメインである富士急行1000形(元京王旧5000系)も6000形(元JR205系)によって置き換えが進められとります(京王旧5000系の他の譲渡車も近年廃車が進められており、今後一畑電鉄と伊予鉄道では新型車両への置き換えが計画されとります)。車両の近代化は大手私鉄のみならず地方私鉄でも進行中なのでこちらの記録もお早めにといったところですね。
ワタシダ
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小田急では5200形後期型から腐食対策が強化され窓が一段下降になり、8000形でさらに強化(鋼材品質向上と窓完全ユニット化)されました。
しかし普通鋼のほうが、手間の掛かる腐食修理は頻繁に強いられるものの、事故時の修復が比較的容易ですし、特殊構造への対応も柔軟なため、近鉄ひのとりや地方第三セクター向け気動車など、鋼製の新車もあります。
アルミやステンレスだと修復難易度が高く、811・813系衝突事故のように事故廃車されたケースもあります。
ステンレスは錆びにくいものの一度錆が出ると錆取りが難しいのも欠点です(国鉄がアルミやステンレス車体に消極的だったのは現場からこの意見があったのも理由の一部)。
ワタシダ
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