帝都電鉄の路線として開業し、その後小田急に合併しつつも、大東急の解体時に京王の路線となった井の頭線。
京王の本線系統とはレールの幅や車両が異なることが、出自の違いを現代に伝えています。
小田急時代は帝都線を名乗った井の頭線は、収益性の高い鉄道路線でした。
大東急からの分離独立にあたり、小田急は稼ぎ頭の路線を失ったことになりますが、それは不運なできごとだったのでしょうか。
関東にも多くの私鉄が存在しますが、東急、京浜急行、京王、小田急は戦時中に合併して同一の会社となり、大東急と呼ばれていました。
合併して一つの会社となった各社ですが、戦後には合併前の各社に起因する体質の違いや、戦後復興を早期に進めていくことを理由として、大東急を解体する機運が高まり、合併前の各社に分離独立していくこととなります。
大東急の解体は、元の会社に戻りましょうという単純なものではなく、路線や子会社の移動により収益面でのバランスが考慮される再編成と呼ばれるものでした。
再編成にあたっては、各社の収益と将来の見通しが考慮されたようですが、収益性に課題を抱える京王が焦点となりました。
京王は配電統制令によって電力供給事業を失っており、そのままでは独立後に経営を維持することが困難な状況でした。
そこで、合併前は小田急の路線となっていた井の頭線を京王に移し、自立した経営が可能なように考慮されました。
こうして井の頭線を失うことになった小田急ですが、年間の輸送人員が小田急全体の1/3程度もあったため、経営的なインパクトは大きいものでした。
当然のことながら、大東急社内には混乱が生まれ、決着に向けて調整が図られることとなります。
乗り入れによってロマンスカーを生み出すことにも繋がる箱根登山鉄道と、沿線の発展を後押しすることとなるバス会社の神奈川中央交通です。
経緯は異なりますが、小田急には後に江ノ島電鉄も加わり、既存路線との相性がよい強い味方を得たことになります。
井の頭線と釣り合っていたのかといわれれば、独立時点では違ったのかもしれません。
しかし、箱根への輸送という強い武器を得たことや、バスの路線網が沿線の発展に寄与したことを踏まえれば、間違ってはいない選択だったともいえます。
ドル箱路線を失うこと自体は不運だったものの、長期的な視点で見れば、それによって得た代償は小田急を発展させる起爆剤となりました。
私鉄各社の統廃合という歴史は、結果として関東の発展に大きな影響を与えたともいえそうですね。
結末を予測することは不可能ですが、その場合はどんな小田急になっていたのでしょうね。
京王の本線系統とはレールの幅や車両が異なることが、出自の違いを現代に伝えています。
小田急時代は帝都線を名乗った井の頭線は、収益性の高い鉄道路線でした。
大東急からの分離独立にあたり、小田急は稼ぎ頭の路線を失ったことになりますが、それは不運なできごとだったのでしょうか。
井の頭線を失った小田急
国鉄を民営化したことによって生まれたJRグループに対し、日本に多く存在するのが私鉄と呼ばれる鉄道会社です。関東にも多くの私鉄が存在しますが、東急、京浜急行、京王、小田急は戦時中に合併して同一の会社となり、大東急と呼ばれていました。
合併して一つの会社となった各社ですが、戦後には合併前の各社に起因する体質の違いや、戦後復興を早期に進めていくことを理由として、大東急を解体する機運が高まり、合併前の各社に分離独立していくこととなります。
大東急の解体は、元の会社に戻りましょうという単純なものではなく、路線や子会社の移動により収益面でのバランスが考慮される再編成と呼ばれるものでした。
再編成にあたっては、各社の収益と将来の見通しが考慮されたようですが、収益性に課題を抱える京王が焦点となりました。
京王は配電統制令によって電力供給事業を失っており、そのままでは独立後に経営を維持することが困難な状況でした。
そこで、合併前は小田急の路線となっていた井の頭線を京王に移し、自立した経営が可能なように考慮されました。
こうして井の頭線を失うことになった小田急ですが、年間の輸送人員が小田急全体の1/3程度もあったため、経営的なインパクトは大きいものでした。
当然のことながら、大東急社内には混乱が生まれ、決着に向けて調整が図られることとなります。
井の頭線の代償として得たもの
大東急を解体する過程において、収益性が高い井の頭線という路線を失うことになった小田急ですが、代償として得たものもあります。乗り入れによってロマンスカーを生み出すことにも繋がる箱根登山鉄道と、沿線の発展を後押しすることとなるバス会社の神奈川中央交通です。
経緯は異なりますが、小田急には後に江ノ島電鉄も加わり、既存路線との相性がよい強い味方を得たことになります。
井の頭線と釣り合っていたのかといわれれば、独立時点では違ったのかもしれません。
しかし、箱根への輸送という強い武器を得たことや、バスの路線網が沿線の発展に寄与したことを踏まえれば、間違ってはいない選択だったともいえます。
ドル箱路線を失うこと自体は不運だったものの、長期的な視点で見れば、それによって得た代償は小田急を発展させる起爆剤となりました。
私鉄各社の統廃合という歴史は、結果として関東の発展に大きな影響を与えたともいえそうですね。
おわりに
小田急の路線から消えた井の頭線ですが、もしも残っていたらと考えることがあります。結末を予測することは不可能ですが、その場合はどんな小田急になっていたのでしょうね。
コメント
コメント一覧 (23)
逆に井の頭線の利用者減少を懸念して千代田線との直通や下北沢地下化に舵を切れず、複々線化も現実の京王みたく中途半端な状態で終わってしまっていた可能性すら考えられます。
別会社になって結果的に良かったのかもしれませんね。
ワタシダ
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一方、井の頭線を残すことのできた小田急では、世田谷区狛江様の書き込みにもあるように、線路の引き直しを行った上で、下北沢駅を大岡山駅のような構造にしていたのではないか、と考えたこともあります。また、史実通りに武蔵野乗合自動車を買収して小田急バスを発足させた可能性は、大いにあるのではないかと思います。(その場合には、吉祥寺でも親会社の鉄道路線と接続することになるからです。)
ワタシダ
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ただ、そんな大刀を持っているにも関わらず、多摩ニュータウン以外だと殆どの側面で京王が小田急を上回れていないのが現状ですので、小田急も井の頭線無しでよくやってきたもんだなと思います。
ワタシダ
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帝都と小田急は元々が別会社なので短絡線など無く
軌間こそ同じでも車両の融通はできず小田原~渋谷なんていうのも不可能
池ノ上~世田谷代田あたりに短絡線があったとしても
求められる車両性能や編成長も異なるうえ
本線系の大型車化や長編成化や複々線化を進めると同時に
帝都線の輸送力増強も計らなければならず
それはそれでしんどかったかも…
(1980~2010 頃の時代)
やはり神奈中と箱根登山を傘下にでき
県央や西部を掌握できたメリットの方が大きかっただろうな…
ワタシダ
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ワタシダ
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しかし京王からすれば、軌間が1067mmのため京王本線系統と線路を接続できず台車など部品共通化ができないデメリットを抱えていますが…。
もし都営新宿線建設時に軌間を三田線と同じ1067mmに改軌していたら、明大前付近に保守一元化用連絡線はできていたか…(たぶん無理だった)(笑)
ワタシダ
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阪和電鉄 新京阪線
近鉄と共同の奈良電
泣きっ面に蜂
京成は総武鉄道
ワタシダ
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ワタシダ
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それでもロマンスカーの湯本乗り入れは実現したと思うけど、今ほどの本数はなかったよね。その分、国鉄・JRが乗り入れていたかも知れないな。踊り子号が伊豆急下田・修善寺・箱根湯本行きの三層になっていたり、成田エクスプレスも。
京王は経営が立ち行かなくなり、どこかに吸収されていたかも? 東急に戻るか、小田急か。
小田急は今よりも、通勤カラーが強い路線になっていただろうな。
ワタシダ
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ワタシダ
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余談ですが、昭和30年代には武州鉄道が吉祥寺駅から御花畑駅まで結ぶ新路線を計画していました。
ワタシダ
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小田原線との連絡線を作れば、渋谷発のロマンスカーとか、多摩線は渋谷発着にして、京王線とももっと上手く住み分けができたかも。
ワタシダ
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ワタシダ
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ただ、京王にとってプラスになったことは、間違いのないところでしょう。
では、肝心の井の頭線にとってはどうだったでしょうか? もし小田急に残っていたとしたら、小田原線の輸送力増強で手一杯の小田急は、井の頭線まで手が回らず、今ほど近代化されていなかったのではないでしょうか?
かといって、井の頭線を完全に放置することもあり得ず、その分 複々線化が遅れたり 今より不完全なものになったりしていたのではないか…という気がします。
ワタシダ
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ワタシダ
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