小田急線内で2番目に利用者が多く、JR東日本の横浜線との乗換駅にもなっている町田。
駅がビルの中を貫通する珍しいスタイルとなっており、1日を通じて多くの列車が行き交っています。
そんな町田ですが、計画では現在のルートよりも東寄りを進む予定だったという情報があります。
資料が少なく、詳しいことは不明ですが、本来どの辺りを通る予定だったのかを考えてみたいと思います。
さりげなく書いてあることが新たな発見だったりするため、まだまだ知らないことは多いのだと、日々実感しています。
何を調べていた時かは忘れてしまいましたが、ある時町田に関する気になる情報を目にしました。
それは、町田付近のルートが元々は長津田寄りを通る計画だったというもので、恥ずかしながら初めて目にしました。
僅かに触れられているのみで、実際はどの辺りを通る計画だったのか等は不明ですが、気になる記述です。
地主の働きかけによるルート変更だったようですが、もしも計画段階のルートで敷設されていた場合、町田付近は違った発展をしたのかもしれません。
町田付近は、勾配とカーブが多いという点が特徴の一つです。
相模大野から先とはあまりにも風景が異なり、そんな違いが魅力的な区間ともいえるでしょう。
それは、鶴川や玉川学園前付近で不自然に西寄りを進んでいることで、あえて直線で進んでいない印象を受けるのです。
考えられる可能性としては二つあるように思い、柿生を出たところでカーブせずに直線のまま進んでいくか、玉川学園前を出た先でまっすぐ進むパターンを考えました。
前者は大きくルートが変わりますが、柿生から相模大野までがほぼ直線で結べるため、素直な線形になるように思います。
後者の場合でもカーブはかなり減りますが、鶴川や町田の有志が働きかけたという表現を考慮すると、範囲が限定されすぎてしまうとも思います。
いずれの場合も、相模大野の位置を変えない場合には、小田急の町田駅がかつて横浜線の駅があった位置に近くなりそうです。
計画時のルートがどうなっていたのか、その情報がある際に見落とさないように、これからも注意深く各種文献に触れていきたいと思います。
横浜線との駅が離れていたことも、大きく発展することに繋がったのかもしれませんね。
駅がビルの中を貫通する珍しいスタイルとなっており、1日を通じて多くの列車が行き交っています。
そんな町田ですが、計画では現在のルートよりも東寄りを進む予定だったという情報があります。
資料が少なく、詳しいことは不明ですが、本来どの辺りを通る予定だったのかを考えてみたいと思います。
東寄りを進んだかもしれない小田急
調べ物をしていると、思わぬ情報に触れることがあります。さりげなく書いてあることが新たな発見だったりするため、まだまだ知らないことは多いのだと、日々実感しています。
何を調べていた時かは忘れてしまいましたが、ある時町田に関する気になる情報を目にしました。
それは、町田付近のルートが元々は長津田寄りを通る計画だったというもので、恥ずかしながら初めて目にしました。
僅かに触れられているのみで、実際はどの辺りを通る計画だったのか等は不明ですが、気になる記述です。
地主の働きかけによるルート変更だったようですが、もしも計画段階のルートで敷設されていた場合、町田付近は違った発展をしたのかもしれません。
町田付近は、勾配とカーブが多いという点が特徴の一つです。
相模大野から先とはあまりにも風景が異なり、そんな違いが魅力的な区間ともいえるでしょう。
考えられる東寄りのルート
100年ほど昔のことであり、計画段階のルートは不明ですが、現在の地図を上から眺めてみると、確かに気になる点があります。それは、鶴川や玉川学園前付近で不自然に西寄りを進んでいることで、あえて直線で進んでいない印象を受けるのです。
考えられる可能性としては二つあるように思い、柿生を出たところでカーブせずに直線のまま進んでいくか、玉川学園前を出た先でまっすぐ進むパターンを考えました。
前者は大きくルートが変わりますが、柿生から相模大野までがほぼ直線で結べるため、素直な線形になるように思います。
後者の場合でもカーブはかなり減りますが、鶴川や町田の有志が働きかけたという表現を考慮すると、範囲が限定されすぎてしまうとも思います。
いずれの場合も、相模大野の位置を変えない場合には、小田急の町田駅がかつて横浜線の駅があった位置に近くなりそうです。
計画時のルートがどうなっていたのか、その情報がある際に見落とさないように、これからも注意深く各種文献に触れていきたいと思います。
おわりに
小田急沿線の中でも、かなり発展した地域の一つとなった町田。横浜線との駅が離れていたことも、大きく発展することに繋がったのかもしれませんね。
コメント
コメント一覧 (10)
横浜線も明治時代の交易路に沿っての敷設です。町田はその交易路の市(いち)が発展して商業が集積していった街。鉄道開通はその後です。
なお町田駅の乗降客は大半が乗り換え客であるという記述をあちこちで見ますが、ラッシュ時だけ利用する人がしがちな間違いですね。小田急駅とJR駅の乗降客数差は約9万人。たった9万人ではあの賑わいや小売額にはなりませんし、都内第2位(1位は渋谷駅)のバス乗降客数にもなりません。
ワタシダ
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柿生から直進する形にした場合、鶴川駅南側まではよさそうですが、その先は丘陵地に飲み込まれる形となり、今の奈良町付近を通過してということになりますので、そこへの勾配がかなりきつくなります。玉川学園前駅に降り立つと、北口側と南口側にはすぐ低い山が迫っているのが見えるはずですが、結局あれらを越すとなると、当時の技術と資金、電車の性能的に無理だったということなのではと思います。
一方、玉川学園前駅から町田にかけての不思議な「うねりカーブ」の理由は、ちょっと思いつきませんでした。
「小田急五十年史」に何か記述があるかどうか…。
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そして南大谷でS字カーブしてるのが、その名残りである、という話を聞いたことがあります。
確かに南大谷あたりでは崖を切り通して芹ヶ谷公園脇は盛土、その先はまた微妙な切り通しで町田駅に繋がっており、地形の高低差に対してルートが不自然といえば不自然、強引といえば強引です。
他にルートがなかったのかな。
経緯はさておき、国鉄原町田駅は現在の場所に移転したことで、小田急~JR間の乗り換え距離は遠すぎず近すぎずな状態となり、乗り換えルートとその周辺は人で賑わうようになりました。
ワタシダ
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小田急社史とか町田の郷土史とか…
今回の記事とは関係ありませんが、以前『鉄道ピクトリアル』に小田急鮎電の記事(鮎電の広告)が掲載されていて鶴川駅も相模川の下車駅になっていました。
町田の図書館等で調べましたが、全く手掛かりがありませんでした。
ワタシダ
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