その後に登場するロマンスカーの基礎となり、現在はロマンスカーミュージアムに3両が保存されている小田急の3000形(SE)。
8両の連接車として登場しましたが、国鉄の御殿場線に乗り入れを行うため、後に5両へと編成を短縮しました。
晩年は一部の編成が先に廃車となったり、国鉄との関係で延命が行われたりと混乱しましたが、1992年に残る全編成が引退しました。
最終的には3021Fが保存されましたが、そこに至るまでの経緯を振り返ってみたいと思います。
御殿場線に乗り入れるあさぎり号のほか、さがみ号やえのしま号等で使われ、3100形(NSE)の代走として、重連ではこね号に充当される等、活躍の幅が広い車両となります。
1980年に7000形(LSE)が登場すると、増備の進展によってSEは余剰気味となり、1983年に第1編成である3001Fが廃車となります。
廃車後は大井川鉄道に譲渡され、小田急時代とほとんど変わらない姿で活躍しますが、1987年のダイヤ改正で運用から外れて休車となり、1993年に解体されてしまいました。
貴重な第1編成ではありましたが、残念な終わり方だったといえそうです。
残った編成については、1984年から車体修理が行われますが、第2編成である3011Fだけは対象から外され、4編成が順次更新されます。
3011Fは他編成の更新後は運用に入らず、1987年に廃車となってしまいました。
廃車後は海老名検車区に留置されていましたが、方針の変更により1989年に解体され、更新改造前の姿を残すSEは、大井川鉄道に移籍した3001Fのみとなります。
3011Fは国鉄線上で高速試験を行った編成で、そういった面でもSEの中では象徴的な存在でした。
保存予定とされたのは、そのような事情を考慮してのことと思われますが、留置線不足等を理由として解体されてしまい、これもまた残念な終わり方となっています。
残った4編成は、20000形(RSE)の登場まであさぎり号を中心に活躍を続けますが、1991年に定期運行を終了し、1992年のさよなら運転後に廃車となりました。
元々は保存予定がなかったものの、SEが持つ車両としての価値が認められ、3021Fの5両が最終的には保存されました。
その後中間車の2両が抜かれ、ロマンスカーミュージアムへと保存されていますが、状況の変化に振り回され続けた車両だったといえるのかもしれません。
1983年に3001Fが廃車されて大井川鉄道に譲渡、1987年に3011Fが廃車されて大井川鉄道では3001Fが運用離脱、1989年に3011Fが解体、1992年に残りの編成が廃車されて3021Fを保存、1993年に大井川鉄道で3001Fが解体、この気になる時系列はただの偶然なのでしょうか。
8両の連接車として登場しましたが、国鉄の御殿場線に乗り入れを行うため、後に5両へと編成を短縮しました。
晩年は一部の編成が先に廃車となったり、国鉄との関係で延命が行われたりと混乱しましたが、1992年に残る全編成が引退しました。
最終的には3021Fが保存されましたが、そこに至るまでの経緯を振り返ってみたいと思います。
先行して廃車された2編成
編成短縮後のSEは5両が6編成の陣容に整理され、2編成を繋いだ重連で走行することも可能となりました。御殿場線に乗り入れるあさぎり号のほか、さがみ号やえのしま号等で使われ、3100形(NSE)の代走として、重連ではこね号に充当される等、活躍の幅が広い車両となります。
1980年に7000形(LSE)が登場すると、増備の進展によってSEは余剰気味となり、1983年に第1編成である3001Fが廃車となります。
廃車後は大井川鉄道に譲渡され、小田急時代とほとんど変わらない姿で活躍しますが、1987年のダイヤ改正で運用から外れて休車となり、1993年に解体されてしまいました。
貴重な第1編成ではありましたが、残念な終わり方だったといえそうです。
残った編成については、1984年から車体修理が行われますが、第2編成である3011Fだけは対象から外され、4編成が順次更新されます。
3011Fは他編成の更新後は運用に入らず、1987年に廃車となってしまいました。
保存が予定されていた3011F
1980年代に2本が廃車となったSEですが、3011Fについては当初保存が予定されていました。廃車後は海老名検車区に留置されていましたが、方針の変更により1989年に解体され、更新改造前の姿を残すSEは、大井川鉄道に移籍した3001Fのみとなります。
3011Fは国鉄線上で高速試験を行った編成で、そういった面でもSEの中では象徴的な存在でした。
保存予定とされたのは、そのような事情を考慮してのことと思われますが、留置線不足等を理由として解体されてしまい、これもまた残念な終わり方となっています。
残った4編成は、20000形(RSE)の登場まであさぎり号を中心に活躍を続けますが、1991年に定期運行を終了し、1992年のさよなら運転後に廃車となりました。
元々は保存予定がなかったものの、SEが持つ車両としての価値が認められ、3021Fの5両が最終的には保存されました。
その後中間車の2両が抜かれ、ロマンスカーミュージアムへと保存されていますが、状況の変化に振り回され続けた車両だったといえるのかもしれません。
おわりに
最終的に3021Fが保存されたSEですが、時系列を眺めると面白いことに気付きます。1983年に3001Fが廃車されて大井川鉄道に譲渡、1987年に3011Fが廃車されて大井川鉄道では3001Fが運用離脱、1989年に3011Fが解体、1992年に残りの編成が廃車されて3021Fを保存、1993年に大井川鉄道で3001Fが解体、この気になる時系列はただの偶然なのでしょうか。
コメント
コメント一覧 (13)
記憶違い等があるかもしれませんが……
3000形SEは長らく屋内収納庫に納められていたので、中間車2輌を抜かず にそのままで良かったのでは?…などと思ってしまいます。
また、3100形NSEは"静態保存"時と同様の6輌編成で実際に走っていたことがあるそうなので、こちらもそのままにして欲しかったですね。
ミュージアムの建設にも多額の資金を要するのは分かりますが、そうゆうスペースをも勘案して造ったほうが、"テッパク"などとの違いも出せるし『ただ車輌を置いているのではない』という鉄道ファン以外の方々にもアピールできたのではないかと思います。
(後の祭り…ですが、クラウド・ファンディングも活用すべきだったのでは………)
ワタシダ
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ワタシダ
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大のSSE好きとして一言書き込みをさせてください。
大井川鐵道に譲渡された編成ですが、小田急側の残存編成が保存されるかどうかを見極めてから解体したという話を商業誌で見た記憶があります。
もともとトップ編成を保存目的も兼ねて譲渡して貰ったので、小田急側が初期編成保存を求めるのであれば戻すことも想定して解体を待っていたのではと推測しています。
あさぎり運用終了直後は経堂に住んでいたので塗装が剥がれてポツンと置かれている姿を見てましたが、その当時の大井川鐵道の編成はさらに状態が悪かったと聞いているので、最後は状態が良い方を選んだのかもしれませんね。
ワタシダ
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ワタシダ
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特にSE車3000形ロマンスカーは小田急としても日本の鉄道史としても非常があるので、何としても1編成5両は残してほしかった。
仮に海老名車庫機能を縮小してでも、残すべきだった車両です。
もし伊勢原新駅&車庫への建設計画があれば、海老名車庫を縮小して、縮小した分の車庫機能は伊勢原が代替地になっていたであろう。
現在のダイヤや使い勝手からも、車庫は海老名よりも伊勢原の方が使い勝手がいいはずです。
ロマンスカーが格納されていた通勤車3両も、将来的にはミュージアム拡張で追加展示しても良く、更に海老名車庫が縮小しても、伊勢原が代替地になります。
ワタシダ
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展望席のあるNSEに人気では及びませんでしたが、見ても乗っても走りはNSEよりも軽やかな印象で、私はSSEのほうが好きでした。
しかし、時が過ぎ昭和の終盤から平成にかけて、新型のLSEやHiSEと比べると、いかにも古めかしく疲れたようにも見え、引退が迫っていることを嫌でも感じました。その頃にはあさぎり号に集約されており、新宿到着後乗客の降車が終わると室内灯がパッと消され、ゆっくりと経堂へ引き上げていく姿は、一抹の寂しさを感じたものです。実際、経堂車庫で休んでいる姿をよく見かけたのもこの頃でした。
引退後は片側2両がSE時代に復元されていたと思いますが、中間車2両が解体されたとの情報は、大変残念に思います。なにしろ、VSEやGSEの礎になった車両ですから、中間車とはいえ保存の価値は充分に有ったと思います。
ワタシダ
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今まで保存しておいて何でだよ。
ワタシダ
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それと、ワタシダさんの書かれた「時系列的興味」は3001Fの小田急による買い戻し特約でもあったのか、ということなんじゃないかと推察しますが、どうですかね。確かに廃車解体時期の流れを見ると、そういうことも検討はされたようにも思えます。
原形に近い(特に屋根上や窓)編成は、未更新の3001Fと3011Fのみだったわけなので、そこから保存車が選ばれるのが、まあ一応普通と思えますよね。ところが3001Fは大井川鐵道に売られ、当初は3輌に短縮が検討されたものの、機構的に困難ということでそのまま5連で営業。これが廃車を早めたようにも思えます。一方3011Fは経堂車庫の上り方海側がおおよそ定位置で、安全側線みたいなところに突っ込んで置かれていましたが、実はあっちこっち移動していました。だんだん幽霊みたいな雨だれだらけに汚れ、近所の幼稚園の子どもは気味悪がったかもね…。
そもそも更新がなぜ4編成だけ行われたのかですが、当初はS-LSE(短編成のLSE)で置き換える計画が、国鉄の態度硬化により頓挫(南海は485系を買えとか言われて「きのくに」乗り入れ廃止しましたよね)。やむなく4編成のみ更新して乗り入れ継続というのが事実です。4編成なのは、確か「あさぎり」運用は2編成ですみ、残りは多客期の増結と故障対応の予備と考えると、4編成で十分(つまりもう「はこね」などへの投入はほぼ考慮しない)と考えたからでしょう。
現実的には更新後の4編成が動いているのに、未更新の3011Fを指定して早々と保存するわけにもいかなかったというあたりが事実では無いかと。
それより、当時の取締役会で「一編成を永久保存」と決めたのに、それを易々と反故にして、3輌に短縮してしまう現経営陣の考え方が問題に思えます。
ワタシダ
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あの手動ドアの施錠と開錠をスチュワーデス(女性添乗員・JALスチュワーデス(現:パーサー)の実機搭乗前の現場実習として)さんが行っていたのが懐かしいですね
保存されたSEは登場時の姿に戻さなかったのはなぜでしょうね(ヘッドマークなし・ヘッドライトがセンター位置)
ワタシダ
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ワタシダ
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