かつては小田急で最大の勢力を誇り、2012年に最後の編成が引退した先代の5000形。
おでこにライトを乗せた姿に特徴があり、小田急といえばこの車両という代名詞的存在でもありました。
そんな5000形ですが、1969年から1982年までの比較的長い期間に渡って増備されています。
これには5000形が生まれた際の狙いが関係していますが、それはどのようなものだったのでしょうか。
大量増備を念頭に置いた大型車として2600形を導入し、従来車の機器を流用して造られた4000形も増えつつありましたが、どちらかといえば活躍の中心は各駅停車であり、急行は2400形等の中型車を中心とした8両で運行していました。
5000形は急行の大型化を進めることを目的に登場した車両で、当時の運用上は途中駅での分割併合が避けられなかったことから、2本を繋いだ8両で運行することを前提として、4両編成での登場となりました。
登場した時点においても、将来的に10両で運転することが想定されており、その際は6両を繋げればよいという考え方になっています。
2600形や4000形がやや特殊な車両だったのに対して、5000形はとても無難な車両となっており、2400形の足回りに2600形の車体を組み合わせた構成で、安定志向の設計とされました。
2400形が大量増備されたのと同じように、5000形も当初から大所帯になることを想定していたものと思われます。
急行は他形式との併結が避けられず、後に登場する9000形を分けて考えれば、従来車と繋いだ際の相性も考慮してのことだったのでしょう。
5000形は4両が12編成登場したところで増備が中断し、9000形が揃った後に再開された経緯となっており、車体に仕様差が生まれるきっかけにもなりました。
安定志向の設計とされた5000形に対して、9000形はあらゆる面で意欲的だったといえますが、増備再開後の5000形がその要素を積極的に取り入れることはありませんでした。
前面は従来車のデザインを踏襲したほか、抵抗制御であることも全く変わっておらず、車体等の一部に9000形の要素を加えた改良が行われた程度となっています。
性能を合わせるという点において、西武の101系や東武の8000系に近い存在でもあり、小田急の標準性能車だったともいえます。
ブレーキ操作の関係で、他形式と組んだ際の相性は必ずしもよくない面はありましたが、急行向けに安定した機器で増備を続け、5000形は急行の大型化という当初の目的を果たしました。
4000形が高性能化時に2400形のモーターを流用したことで、結果的に標準性能は平成になっても維持され、これに8000形を加えた形式群を中心として、平成という時代の急行も運用されていくこととなります。
小田急顔というデザインの集大成となった車両は、分割併合が当たり前の急行を大型化するにあたって、大きな役割を果たすこととなりました。
おでこにライトを乗せた姿に特徴があり、小田急といえばこの車両という代名詞的存在でもありました。
そんな5000形ですが、1969年から1982年までの比較的長い期間に渡って増備されています。
これには5000形が生まれた際の狙いが関係していますが、それはどのようなものだったのでしょうか。
急行を大型車化するために生まれた5000形
5000形が登場する前である1960年代の小田急は、まだまだ車体が小さい車両が主力として活躍する時期でした。大量増備を念頭に置いた大型車として2600形を導入し、従来車の機器を流用して造られた4000形も増えつつありましたが、どちらかといえば活躍の中心は各駅停車であり、急行は2400形等の中型車を中心とした8両で運行していました。
5000形は急行の大型化を進めることを目的に登場した車両で、当時の運用上は途中駅での分割併合が避けられなかったことから、2本を繋いだ8両で運行することを前提として、4両編成での登場となりました。
登場した時点においても、将来的に10両で運転することが想定されており、その際は6両を繋げればよいという考え方になっています。
2600形や4000形がやや特殊な車両だったのに対して、5000形はとても無難な車両となっており、2400形の足回りに2600形の車体を組み合わせた構成で、安定志向の設計とされました。
2400形が大量増備されたのと同じように、5000形も当初から大所帯になることを想定していたものと思われます。
急行は他形式との併結が避けられず、後に登場する9000形を分けて考えれば、従来車と繋いだ際の相性も考慮してのことだったのでしょう。
標準性能車としての位置付け
当時の小田急としては比較的長い増備期間となった5000形ですが、その背景には途中で9000形の増備が挟まったことが関係しています。5000形は4両が12編成登場したところで増備が中断し、9000形が揃った後に再開された経緯となっており、車体に仕様差が生まれるきっかけにもなりました。
安定志向の設計とされた5000形に対して、9000形はあらゆる面で意欲的だったといえますが、増備再開後の5000形がその要素を積極的に取り入れることはありませんでした。
前面は従来車のデザインを踏襲したほか、抵抗制御であることも全く変わっておらず、車体等の一部に9000形の要素を加えた改良が行われた程度となっています。
性能を合わせるという点において、西武の101系や東武の8000系に近い存在でもあり、小田急の標準性能車だったともいえます。
ブレーキ操作の関係で、他形式と組んだ際の相性は必ずしもよくない面はありましたが、急行向けに安定した機器で増備を続け、5000形は急行の大型化という当初の目的を果たしました。
4000形が高性能化時に2400形のモーターを流用したことで、結果的に標準性能は平成になっても維持され、これに8000形を加えた形式群を中心として、平成という時代の急行も運用されていくこととなります。
おわりに
千代田線に乗り入れる9000形という存在がなければ、5000形はさらに多い両数が製造されていたと思われます。小田急顔というデザインの集大成となった車両は、分割併合が当たり前の急行を大型化するにあたって、大きな役割を果たすこととなりました。
コメント
コメント一覧 (22)
ワタシダ
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全体の性能としては、実績のある機器を中心に採用し、安定的であったと思われますが、バーニア制御を採用していたのは、保守や運転として見たときにはどうだったのでしょうね。
当時回生ブレーキを採用出来なかったのは、急行などの高速種別で、高速から回生ブレーキをかけると、架線電圧を押し上げてしまい、最悪変電所からの給電が止まってしまうという問題があったからです。
効率的に回生出来る制御器も無かった時代でした。9000での回生ブレーキも、高速域では発電ブレーキになったり、他形式と併結の場合は発電ブレーキになってしまうのも、同様な理由によるものです。
ワタシダ
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ですが個人的には、後ろ4両急行江ノ島行きの印象が強いですね。(前4両は2400形急行箱根湯本行き)
それと、晩年のどうだったか忘れたが、登場の頃は、乗務員室の壁が水色でした。2600は黄緑、4000はピンクだったと思います。
ワタシダ
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阪神7801形で電機子チョッパ制御試験が行われた際も、メンテナンス減のためチョッパは力行のみで回生ブレーキは省略されたようです。やはり昔は回生ブレーキのメンテナンスも大変だったんでしょうね。
ワタシダ
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しかし最終的には各形式とも各停にも快速急行にも多用されるオールラウンダーとなり運用上区別はなくなり、電磁直通ブレーキのまま3000形との読替装置介した併結も多く行われました。
現代ではVVVFで高加速・高速性能の両立が容易ですが、昭和時代はどちらか重視して設計となり、運用も大変だったんですね。
ワタシダ
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ワタシダ
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低速時の電制立ち上げの際、B弁をスポッティング位置に長めに置かないと大衝動になる事だけ気をつければ、異編成でも安定していた記憶があります。
しかしなぜ回生制度を採用しなかった
のか、意味がわかりませんでした。
ワタシダ
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ワタシダ
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2600形の制動力の低さに懲りたのか、予備励磁が強めで高速域からは抜群の電制の効きでしたが、新宿駅入線などの低速時の電制立ち上がりが強すぎる感じがあり運転士の腕の見せ所でしたね。(たまに新宿構内で電制切っていることもあったなぁ。)
T車が小径車輪なのも5000が最後だったので、定尺レール残っていた区間でトタントタンと走る感じも今となっては懐かしい。
ワタシダ
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ワタシダ
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