輸送力の増強が急務であり、狛江地区の複々線化工事が進められていた1990年代の小田急。
既存設備における輸送力増強が限界に近付く中、複々線化は社運をかけたプロジェクトであるとも語られていました。

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そんな時代の小田急の広報誌において、当時の社長である利光達三氏のインタビューが掲載されています。
その中では、混雑緩和に向けた思いが語られていますが、それはどのようなものだったのでしょうか。

最大課題とされていた複々線化事業

1989年に狛江地区で着工した複々線化は、仮線への切り替えを行いつつ、1990年代に本格的に進み始めました。
見慣れた風景は徐々に姿を消し、現代に繋がる新しい沿線風景へと変化していくこととなります。

既に複々線となっていた代々木上原から東北沢までに加え、和泉多摩川までを複々線化する事業でしたが、小田急単独の事業として登戸まで線増が行われ、向ヶ丘遊園までは3線となりました。
小田急の複々線化は、線増と連続立体化という二つの要素があり、輸送力を増強して混雑の緩和を図るという面においては、前者の線増が重要な施策でした。

具体化していた代々木上原から和泉多摩川までの区間に加え、インタビューでは利光達三氏から将来への思いについても語られていました。
その内容は、できれば相模大野まで、少なくとも新百合ヶ丘までは複々線にしたいというもので、結果的に実現はしなかったものの、大きな夢が描かれていたようです。
さらに、最終的には新宿からの複々線にしたいとも語られており、実現していたらどんな沿線風景となっていたのでしょうか。

他にも語られていた混雑緩和策

複々線化が本格化しつつあった頃の貴重なインタビューは、1991年に公開されていました。
構想的な意味合いで書かれていますが、複々線化以外にも混雑緩和に向けたいくつかの例示があり、興味深いものとなっています。
この時期の小田急は、ラッシュ時の切り札として1000形のワイドドア車を導入していく頃で、試行錯誤の時代でした。

将来的に実現したものとしては、各駅停車の10両化、固定編成化による分割併合や列車種別の見直しがあります。
前者は複々線化時にホームが10両に対応したものとされており、着々と準備が進められていきました。
後者については今更言うまでもありませんが、現代の運行状況をそのまま言語化したような内容といえます。

もう一つの内容は実現しませんでしたが、なかなか興味深いものとなっており、2階建ての通勤型車両について触れられています。
この時期は、JR東日本で415系に試験的な2階建て車両が登場し、後に215系の登場へと繋がっていますが、小田急もこのような車両を構想していたのかもしれませんね。

おわりに

平成という時代の小田急は、複々線化に始まり複々線化に終わったと表現できます。
想定以上の時間を要してしまった複々線化でしたが、その裏では他にもできることをしようと模索していたのでしょうね。