合計180両が製造され、1000形に抜かれるまでは小田急の最多勢力を誇った5000形。
4両と6両の編成があり、最大で10両を組んで活躍しました。

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そんな5000形でしたが、晩年には6両の編成から中間車を抜き、一部が4両に短縮されます。
元々は赤い1000形のように、箱根登山線内を走る専用編成になる予定だったといわれていますが、なぜそうならなかったのかを考えてみたいと思います。

晩年に編成を短縮した3編成の5000形

小田急としては異例の大量増備となった3000形に押され、2006年から5000形の廃車が始まりました。
5000形は編成の両数で増備の時期に違いがあり、まずは4両ばかりが15編成揃えられ、その後6両が20編成造られました。

6両のほうが新しい5000形でしたが、最初に廃車となったのは6両の編成で、登場した順番はほとんど考慮されずに置き換えが進められることになります。
当時の小田急は、分割併合の廃止によって全線10両化を本格化させる時期で、箱根登山線内の4両化や、10両を組むための付属編成が必要になることを踏まえると、4両が不足気味という状態でした。

5000形の置き換えを進めていくにあたり、圧倒的に古い4両をいつまでも残すわけにはいかなかったのか、2007年度に5000形の6両から中間車を2両抜き、4両化する改造が行われることとなります。
新しい編成を廃車し、古い編成が残る状態を避けるため、5000形で5000形を置き換えるという、苦肉の策ともいえる対応が行われたのです。

編成を短縮する改造は、不足する4両を補うために、比較的新しい6両の編成を活用したとされていますが、やや不思議なのはその後の展開です。
簡易的な改造だったとはいえ、4両化後に使われた期間は4年ほどしかなく、あえて編成を短縮する必要があったのかといわれれば、疑問が残る結果となっています。

そこで信憑性を帯びてくるのが、4両化された編成が箱根登山線内の専用編成になるという当時の噂で、カラーリングも変更して使われるとよく耳にしました。
真偽のほどは不明ですが、後に1000形が専用編成となっており、違う形式で実現しています。

箱根登山線の専用編成にならなかった謎

噂は噂として終わり、5000形の箱根登山線内専用編成は登場しませんでしたが、本当に計画があったと仮定した場合、後に専用編成化された1000形と編成数が一致します。
ただ、それだけをもって1000形に計画変更されたといえるほど単純でもなく、5000形と1000形の両方を専用編成化する可能性もあったかもしれません。

急行の箱根湯本への乗り入れをやめた当時、直通運転自体はある程度残っており、各駅停車が新松田から箱根湯本までを往復する運用がありました。
つまり、現在よりも必要な編成数が多く、実際に赤い1000形以外の編成も多く使われ、カラーリングを変更した専用編成を用意しながらも、中途半端な状態となっていたのです。
5000形の3編成と1000形の3編成であれば、当時の運用をある程度まかなえることを踏まえると、そんな可能性もあったのかもしれません。

後に1000形へと統一された箱根登山線内ですが、それ以前は5000形と1000形が主に使われ、8000形も未更新車が走っていました。
比較的多く見られた5000形ですが、箱根登山線内を往復するのに向いている車両だったのかといえば、必ずしもそんなことはなく、元々が急行用の車両で加速性能は1000形に劣り、消費電力の面でもかなりの差があります。
小田急線内の優等列車で使うほうが、5000形の効率としてはよかったため、専用編成化して長く使うということに対して、見直しが行われたのかもしれません。

新たな4両を造りたくないという事情があったことも、この動きに関連していた可能性があります。
5000形の延命により4両の確保を試みつつも、3000形の10両化によって5000形を置き換えられることになり、あえて抵抗制御の車両を残す必要がなくなってしまいました。
当時の時系列を振り返っていくと、何らかの計画変更が生じた可能性を、やはり感じずにはいられませんでした。

おわりに

中間車を廃車して4両化され、僅かに4年程度使われることになった3編成。
改造後の活躍期間がかなり短いことから、何らかの計画変更があった可能性は、やはり高いのかもしれませんね。