小学校等で教わる機会があり、多くの人が歌った経験を持つ春の小川。
もうすぐ春を迎えようとしているこの時期において、歌詞からはなんとなく当時の情景が浮かんできます。

このように書き出すと、小田急と何の関係があるのだろうとなりますが、歌詞にある春の小川は小田急の沿線にあったといわれています。
歌詞のモデルとなった川は、いったいどこを流れていたのでしょうか。

歌い継がれる春の小川

現代においても歌われている春の小川は、1912年に文部省唱歌として発表されました。
小学校で教えられるため、歌ったことがある方がほとんどではないでしょうか。

昔は作詞や作曲者が不詳とされていたようですが、その後作詞者が高野辰之氏、作曲者が岡野貞一氏と認定されました。
オリジナルの歌詞は文語体となっており、小学生が歌うには難しかったことから、後に歌詞の一部が改変されており、時代に合わせて変化しています。

改変後の歌詞は著作権の保護期間内であり、ここに載せることはできませんが、当時の情景を感じられるような、そんな歌詞となっています。

小田急沿線を流れていた河骨川

100年以上も前に発表された春の小川ですが、モデルとなった川は小田急沿線にあったといわれています。
断定できる資料がなく、他の川ではないかという説もあるようですが、かつて小田急沿線を流れていた河骨川に由来するというのが定説です。

作詞者の高野辰之氏は、現在の参宮橋から代々木八幡の中間付近に住んでおり、河骨川はその付近を流れていました。
肝心の河骨川はどこなのだろうということで、線路沿いを少し歩いてみることにしましょう。

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参宮橋と代々木八幡の間を歩くと、やや代々木八幡寄りの場所に歌碑が建てられています。
春の小川は1912年に発表された唱歌であり、小田急の小田原線が開通するのはそれから15年後のことですが、線路は何度か川を渡って通されていたようです。
現在も橋の欄干らしきものが残っている場所があり、当時を今に伝えています。

歩いていても、川らしきものは見当たりませんが、宅地化によって水質が悪化したこと等を理由に、地中に埋められて下水道に転用されてしまいました。

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歌碑の裏側から代々木八幡側を向くと、このような風景となっています。
河骨川はこの辺りで線路の反対側に抜けて戻り、踏切の先からは線路沿いを流れていたようです。

川があった痕跡は何もないに等しいですが、細い道にあるマンホールが、下水道になってしまった現代の姿を感じさせます。
残っていたら、この辺りはどんな風景になっていたのかと想像したくもなりますが、新宿に近いこの場所で残すことは、かなり難しかったといえそうですね。

おわりに

超高層ビルが見えるような場所に、春の小川のモデルとなった川があったとは、現代の風景からは想像もできなくなっています。
見方を変えれば、小田急が線路を敷いた場所は、新宿が近くてもそのような風景だったということになり、その後の発展にも驚かされます。