現在は10両の列車も走るようになり、長編成化が達成された小田急の各駅停車。
少し前まで、小田原線の各駅停車は8両が主流であり、6両で走る列車さえありました。
さらに昔にさかのぼると、各駅停車の最大両数自体が6両という時代さえありましたが、8両への編成増強はどのように始まったのでしょうか。
各駅停車を8両で走らせるためには、まずそれらのホームを延長する必要があり、簡単に実現できることではなかったのです。
短いホームの延長は、1986年度からスタートしました。
当時の発表では、各駅停車の8両化に向けて12駅でホームの延長を行うとあり、南新宿、参宮橋、代々木八幡、東北沢、世田谷代田、梅ヶ丘、豪徳寺、千歳船橋、祖師ヶ谷大蔵、喜多見、狛江、和泉多摩川、これらの駅数と一致しますが、1984年時点の経堂は8両分のホームがないように見えるため、どの駅が対象となっていたのかは気になるところです。
1987年度の発表では、新宿から小田急多摩センターまでの13駅でホームを延長するとあり、多摩線の五月台、栗平、黒川が対象に加わったことが分かります。
1986年度に完成した駅は13駅に含まれなくなったものと思われますが、12駅という発表が誤植だった可能性も僅かながら残りそうです。
ホームを延長することで各駅停車の8両化を行い、輸送力の増強を図るとされてはいたものの、当時から抜本的な対策は複々線化となっており、あくまでも短期的な対策ではありました。
ちなみに、喜多見、狛江、和泉多摩川の3駅については、複々線化工事の着工が迫っていたため、ホームの延長部は仮設とされています。
既に一部が廃車となってしまった1000形がこの時に登場し、4両をまとめて8編成も増備し、8両が4本組めるように備えることとなります。
準備が整ったことを受けて、1988年3月22日のダイヤ改正において、各駅停車の8両での運行が開始されました。
新宿から向ヶ丘遊園までの区間を走る各駅停車は、最大でも6両という状態が長く続いていましたが、一気に2両も増えたことになります。
8両化当初の運行本数はかなり少なく、朝のラッシュ時に4本の上りが設定され、いずれもピーク時の運行でした。
2本は多摩線から新宿に直通する列車とされており、8両の各駅停車が登場したとはいっても、限られた本数のみという状態からのスタートとなっています。
4000形や5000形でも見られたと聞きますが、長い期間ではなかったことだけは確かで、代走のようなものだったのかもしれません。
少し前まで、小田原線の各駅停車は8両が主流であり、6両で走る列車さえありました。
さらに昔にさかのぼると、各駅停車の最大両数自体が6両という時代さえありましたが、8両への編成増強はどのように始まったのでしょうか。
各駅停車の8両化に合わせたホームの延長
立派な複々線区間が続く現代からは想像しにくいですが、各駅停車の8両化が行われる以前の東京都区内には、ホームの長さが6両分しかない駅が多く存在しました。各駅停車を8両で走らせるためには、まずそれらのホームを延長する必要があり、簡単に実現できることではなかったのです。
短いホームの延長は、1986年度からスタートしました。
当時の発表では、各駅停車の8両化に向けて12駅でホームの延長を行うとあり、南新宿、参宮橋、代々木八幡、東北沢、世田谷代田、梅ヶ丘、豪徳寺、千歳船橋、祖師ヶ谷大蔵、喜多見、狛江、和泉多摩川、これらの駅数と一致しますが、1984年時点の経堂は8両分のホームがないように見えるため、どの駅が対象となっていたのかは気になるところです。
1987年度の発表では、新宿から小田急多摩センターまでの13駅でホームを延長するとあり、多摩線の五月台、栗平、黒川が対象に加わったことが分かります。
1986年度に完成した駅は13駅に含まれなくなったものと思われますが、12駅という発表が誤植だった可能性も僅かながら残りそうです。
ホームを延長することで各駅停車の8両化を行い、輸送力の増強を図るとされてはいたものの、当時から抜本的な対策は複々線化となっており、あくまでも短期的な対策ではありました。
ちなみに、喜多見、狛江、和泉多摩川の3駅については、複々線化工事の着工が迫っていたため、ホームの延長部は仮設とされています。
1000形を導入して始まった8両の各駅停車
ホームの延長が進められた1987年度は、8両化を照準にした車両の増備も行われました。既に一部が廃車となってしまった1000形がこの時に登場し、4両をまとめて8編成も増備し、8両が4本組めるように備えることとなります。
準備が整ったことを受けて、1988年3月22日のダイヤ改正において、各駅停車の8両での運行が開始されました。
新宿から向ヶ丘遊園までの区間を走る各駅停車は、最大でも6両という状態が長く続いていましたが、一気に2両も増えたことになります。
8両化当初の運行本数はかなり少なく、朝のラッシュ時に4本の上りが設定され、いずれもピーク時の運行でした。
2本は多摩線から新宿に直通する列車とされており、8両の各駅停車が登場したとはいっても、限られた本数のみという状態からのスタートとなっています。
おわりに
1000形のみでスタートした8両の各駅停車ですが、後に9000形等の他形式も加わり、運行本数は増加していきました。4000形や5000形でも見られたと聞きますが、長い期間ではなかったことだけは確かで、代走のようなものだったのかもしれません。
コメント
コメント一覧 (20)
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代々木八幡は、特に代々木上原に向けて千代田線と合流するためにあいていた上下線の間を利用して島式ホームになり更に地元商店街を説得して山手通りにアプローチできるようになったのは、地元民としてアッパレです。
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本当ならば、1995年に小田原までの急行乗り入れ開始を行いたかったのですが、新松田の配線改良が済んでおらず、本厚木〜伊勢原間の混雑激化で特に平日夜間は本厚木で積み残し列車頻発状態だったので、取り敢えずは秦野までの急行10両化を行っていました。
(急行全線10両化は3年後の1998年に開始)
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9000形は8連なら全電動車なため起動加速が良く各停には重宝する存在でした。
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多摩線もそれまでは中型車による折り返し運転中心でしたが沿線人口の増加に対応するためにも大型車への置き換えが逐次行われ、隣の京王相模原線と異なり各停のみとはいえ新宿直通が設定されたのも関係づけられそうです(その相模原線も1992年には橋本特急の運転を開始したことで都心対多摩ニュータウン方面へのアクセス強化に向けた布石を一足早く実現させとり、小田急も今回の各停8両化を皮切りに本格的な対抗策を練り出すようになりました)。
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