神奈川県下を走るいくつかの私鉄が合併し、戦中から戦後にかけて存在した大東急。
陸上交通事業調整法による合併でしたが、戦時統制による合併の色が濃く、戦後には少し形を変えつつも、合併前の各社に分離独立しました。

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大東急は、東急を中心に京浜急行と京王、小田急等を加えたものでしたが、小田急は合併の経緯が他社と少し異なっていました。
創業者の利光鶴松と五島慶太の関係が生んだ合併は、どのような経緯だったのでしょうか。

小田急の経営陣となった五島慶太

東急の事実上の創業者である五島慶太は、1939年に小田急の取締役に就任しました。
五島慶太が小田急の経営陣に加わった背景には、小田急の創業者である利光鶴松がその手腕に着目していたことが関係しており、利光鶴松の要請がきっかけとなっています。

取締役への就任要請に対して、五島慶太は快諾したといわれていますが、これは過去の経緯により利光鶴松に恩義があったことも関係していました。
利光鶴松は既に75歳となっており、晩年に差し掛かろうとする時期でした。

五島慶太といえば、強引な企業買収を多く行ったことで知られる人物です。
しかし、上述のとおり小田急の経営陣となった事情は異なり、経営者同士通じる部分があったのでしょう。
小田急の取締役となった五島慶太は、強い権限を持って近代化を推進し、経営改革を進めていったそうです。

時が進んだ1941年、利光鶴松は77歳となっており、年齢を理由として社長を引退することとし、後任は養子の利光学一となりました。
当時の小田急は、戦時統制の強化により難しい経営を迫られていた時期であり、利光鶴松は少しして五島慶太に社長への就任を要請します。

五島慶太に要請した理由として、利光鶴松は利光学一では小田急を引っ張ることが難しいと考えていたことがあり、追って利光学一本人からも要請を受け、最終的に五島慶太は社長を引き受けることとなりました。
その際に、五島慶太は将来的な東急への合併についても触れたそうです。

合併により小田急は大東急へ

創業者の利光鶴松から五島慶太に引き継がれた小田急ですが、1942年には京浜急行と合わせて東急に合併し、大東急の歴史が始まりました。
陸上交通事業調整法の趣旨にのっとったことに加え、経営合理化を進める思惑があり、軌間等が異なる路線が一つの鉄道会社としてまとまることとなります。

大東急の一つとなった京急と五島慶太の関係は、地下鉄の相互直通運転計画の紛争に端を発します。
現在の銀座線がその地下鉄にあたりますが、元々は東京高速鉄道と東京地下鉄道という二つの別会社で、新橋で両社の路線を相互直通運転する計画となっていました。
東京高速鉄道の経営陣には五島慶太がおり、これが後に大東急へと合併するきっかけとなります。

先に開業していた東京地下鉄道との接続点である新橋を目指し、東京高速鉄道は路線の建設を進めていきますが、相互直通運転の約束を東京地下鉄道は反故にしようと動きます。
この事態に対し、五島慶太は東京地下鉄道に関する支配権を確立すべく、それを可能とする京浜急行の株式を買収することとしました。
当然事態は紛争へと発展しますが、この調停にあたった1人が利光鶴松であり、関係を深めるきっかけにもなっています。

2年ほど遅れた1944年には、京王も大東急に合併しました。
合併は他社よりも難航する状況でしたが、各方面からの交渉により最終的には合併し、今日の大手私鉄が集まる大東急が形成されています。
京浜急行や京王の流れを見ると、託されることをきっかけとして大東急入りした小田急は特異な存在だったことが分かります。

敵対的な買収を繰り返し、五島慶太は「強盗慶太」の異名さえつけられますが、見る角度によってその評価は分かれる面もあるでしょう。
五島慶太の中には、理想的な交通網を目指すという信念もあったようで、買収等はそれを実現するための手段でしかなかったのかもしれません。

おわりに

創業者から東急に託された小田急でしたが、戦後の分離独立を牽引したのも小田急でした。
大東急の解体により現在の私鉄各社が成立しましたが、その姿を見て利光鶴松と五島慶太は何を思うのでしょうか。